避難した人々が、続々と戻ってきている。
思ったほど危険ではない、と冷静に判断したから、というのでは必ずしもないだろう。
さまざまな家財が残っていて、仕事があり、子どもの学校が始まるとなれば、多少の不安を抱えてはいても、人は被災地に戻ってこようとするものだ。
いや、たとえ家が流され、全てがもくずとなっていてさえ「帰りたい」と思うのが被災者の心情ではないか。
全てを失ってしまったからこそ、自分がそこに生きてきたその「場所」以外、考えられなくなる。
そういう気持ちを大事に支えてもらいたいと切実に思う。
いわき市に限らず、福島県内の退避区域以外の多くの場所では、計測されている放射線量の値が少しずつ下がってきている。
アメリカの助言を受け入れて、危険回避のために窒素充填が始まった、という話を聞くと、ああ、この前のような爆発の危険がまだまだなくなってはいないのだな、と経験から知ることができる。
けっして「安全になった」と判断して戻ってきた、のではない。
学校が始まる、ということも、戻ってくる大きな要因の一つだ。
しかし、原発事故の冷却が持続的に行える安定的見通しが立たないうちに戻ってくるのは、プラスとマイナスどちらが大きいのかにわかに断じがたい。
とにかく、そこより他に生きる場所が見つからないのだ。
誰だって、放射線量の多寡以前に、そんなものをわざわざ計測しなければならないところを選んで住みたいとは思わない。
だが、そこで生まれ、育ち、その土地を生活の基盤としてきた者にとっては、選択の余地は実質上ないと同様だ。
とくにお年寄りは土地を離れて生きたいとは考えない人が圧倒的に多い。
だれが、慣れ親しんだ時空間を放棄して見知らぬ土地に行きたいと思うだろう。
長期化する先行き不透明な事故処理の行方を見守るしかない福島県の住民の心的ストレスは、相当な負担になりつつある。
根本的解決は原発事故の最終的処理の完了を待たねばならないが、それにはどうしても時間がかかる。
この国の行方を左右する半年、1年になりそうだ。
再度爆発があったら、風向きによっては住めなくなるかもしれない。退避区域外側の福島県住民は、等しくその危惧を抱えながら、それでも学校が始まるから、避難所に居るよりは我が家、我が町にいたいから、と戻ってきつつあるのだ。
危険なところに敢えて戻る愚かさ、と見る人もいるだろうか。
安全なのに、ムダにびびる愚かさと断じる人さえいるかもしれない。
でもね。
危険か安全か、だけで私達の生活の時空間は成立しているわけではない。
生きられる身体と結びついた時空間は交換不可能だから、戻るのだ。
頼むよ、日本を背負う人々。そこのところを踏まえて、よろしく!
思ったほど危険ではない、と冷静に判断したから、というのでは必ずしもないだろう。
さまざまな家財が残っていて、仕事があり、子どもの学校が始まるとなれば、多少の不安を抱えてはいても、人は被災地に戻ってこようとするものだ。
いや、たとえ家が流され、全てがもくずとなっていてさえ「帰りたい」と思うのが被災者の心情ではないか。
全てを失ってしまったからこそ、自分がそこに生きてきたその「場所」以外、考えられなくなる。
そういう気持ちを大事に支えてもらいたいと切実に思う。
いわき市に限らず、福島県内の退避区域以外の多くの場所では、計測されている放射線量の値が少しずつ下がってきている。
アメリカの助言を受け入れて、危険回避のために窒素充填が始まった、という話を聞くと、ああ、この前のような爆発の危険がまだまだなくなってはいないのだな、と経験から知ることができる。
けっして「安全になった」と判断して戻ってきた、のではない。
学校が始まる、ということも、戻ってくる大きな要因の一つだ。
しかし、原発事故の冷却が持続的に行える安定的見通しが立たないうちに戻ってくるのは、プラスとマイナスどちらが大きいのかにわかに断じがたい。
とにかく、そこより他に生きる場所が見つからないのだ。
誰だって、放射線量の多寡以前に、そんなものをわざわざ計測しなければならないところを選んで住みたいとは思わない。
だが、そこで生まれ、育ち、その土地を生活の基盤としてきた者にとっては、選択の余地は実質上ないと同様だ。
とくにお年寄りは土地を離れて生きたいとは考えない人が圧倒的に多い。
だれが、慣れ親しんだ時空間を放棄して見知らぬ土地に行きたいと思うだろう。
長期化する先行き不透明な事故処理の行方を見守るしかない福島県の住民の心的ストレスは、相当な負担になりつつある。
根本的解決は原発事故の最終的処理の完了を待たねばならないが、それにはどうしても時間がかかる。
この国の行方を左右する半年、1年になりそうだ。
再度爆発があったら、風向きによっては住めなくなるかもしれない。退避区域外側の福島県住民は、等しくその危惧を抱えながら、それでも学校が始まるから、避難所に居るよりは我が家、我が町にいたいから、と戻ってきつつあるのだ。
危険なところに敢えて戻る愚かさ、と見る人もいるだろうか。
安全なのに、ムダにびびる愚かさと断じる人さえいるかもしれない。
でもね。
危険か安全か、だけで私達の生活の時空間は成立しているわけではない。
生きられる身体と結びついた時空間は交換不可能だから、戻るのだ。
頼むよ、日本を背負う人々。そこのところを踏まえて、よろしく!