龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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4月1日(金)のこと<「てんでんこ」という「断片化」の自覚>

2011年04月03日 21時56分12秒 | 大震災の中で
面白い記事があったので、メモしておく。

2011年4月1日(金)
『ア・ピース・オブ・警句』
「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい
小田嶋 隆

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110331/219253/

詳細は上のサイトで。
この国は、まだ一ヶ月も経っていないのにもう、単一文脈で市民をコントロールしようとする言説を至る所で使い始めている。

でも、私はもうそういう線路に乗ることはできそうにない。

私の職場は、5月の連休明けまでお休みである。始められない事情はいろいろあるのだが、むやみに慌てて、原発事故の行方もまだ見えないうちに始業式を急ぐよりはずっといい。

小田嶋氏の引用する
「てんでんこ」
賛成に一票、ですね(^_^)

断片として、われわれはいきているのだと、だからこそ、様々な形でそれをサポートしていくのだと、ちょっと前に日本人もようやく気づいたんじゃなかったのかねえ。

あくまで「断片」としての覚悟を持ちつつ互いにそれを踏まえつつ、さまざまな形で支え合って生きる。

そこが大切になると思うなあ。ちがうのかしら。


4月3日(日)のこと<「安全だ」という日常性へのしがみつき>

2011年04月03日 15時55分48秒 | 大震災の中で
大気中の放射線量がだんだん下がってきている。
やはり、
爆発→風による飛散→雨による降下
というサイクルが大きかったのだろう。特に水道水の汚染は、いつどこでどんな状態の時に雨が降ったかが大きいのだ、と分かる。

別にそんなことを分りたくはなかったが(苦笑)。

気になることが2つあるので書いておく。

一つは、いわき市の小中学校の始業式が、予定通り行われると、いわき市教育長が発表したことだ。
しかし、施設が使用不可能な小中学校も少なくないし、水が出ないところも多い。
避難中の家族も多数に及ぶ。
状況が激変しつづける中、

>子どもたちの教育は変わることなく、常により良きものを

という教育長のメッセージは、残念ながら説得力に乏しいというべきだ。

第一、原発の爆発が収まるかどうかは、まだ予断を許さない。
第二、教育活動全般(戸外での体育・部活動・授業内容・日数などの震災&原発事故への対応ぜんぱん)について、国の基準や指針も十分に示されていない。
第三、次に原発事故が更なるフェイズに到った時の避難や対応についての共通理解も得られていない。

そのメッセージに込められているのは単純明快
「非常時にも変わらぬ日常を」
という愚かしい日常性へのしがみつきだけである。

少なくても事故の危険を過度に小さく低く見積もった結果が、原発事故の被害に結び付いているのではないか、という市民の不安を無視していることは間違いない。

国の基準が示されたとしても、どのみち日本の原発事故の想定は、「こんな事故は起こることを想定していなかった」という程度のことにすぎない。
その国や県、市が「大丈夫」だといったからといって、いわき市民はまたそれを無条件に信用できるとでも思っているのだろうか?

「子供を人質にとって、いわきからの市民の流出を防ごうとしている政治的意図ではないか」
との穿った見方が学校の周りに渦巻いていることを、教育長はどう受け止めるのだろうか。

二つ目は、飯館村のIAEAの調査から、IAEAにおける退避基準の倍の濃度の放射線量が計測されたことに対して、日本政府の対応が疑問だった。
つまりは、要するに
「日本の基準のほうが適切だから安全だ」
というアナウンスである。

いや、本当のことはどうせ素人には分らないのです。
でもね。
そういう風に「大丈夫だよね」的東電=政府の見解に、不安を覚えつつもつき従ってきた福島県民が、いちばんこういうひどい被害を受けているわけですよ。
そしていざとなったら「想定外」でごめんなさい。

とすれば、私たちは「市民」としてバラバラにむしろ対応するのがよろしいかと思わずにはいられない。
少なくても国の基準と異なる値がでたら、どちらが妥当か、なんて争っている前に、より安全な方を選びたいという市民にこたえる方策、とかをとろうということにはならないのだろうか?

「うちの店はこれでやってます」
「ほかの店よりうちの店の味が確かです」

とか、放射能の危険についてコメントされても挨拶に困るだろう。
丁寧な内容の説明をして村民や国民に情報を開示するのは大切だが。

「だから国の基準が妥当で、IAEAの基準に基づいて避難する必要はない」
なんて言われてしまい、手立てを講じてもらえないと、村民は
「国が安全だっていったから」
と、その場にとどまるしか選択の余地はなくなってしまうのですよねえ。

それは、実は原発事故が起こる前の富岡や双葉、大熊の町民の取らされた態度と全く同じなのです。
避難地区に隣接する地域の人をいたずらに不安に陥れることはいけない、
なんていうけど、じゃあ国が安全だといえば不安に陥らない、とでも思っているのだろうか。
それほど私達はお上の指示に盲目的に従って、また後から「実は想定外でした」なんてだじゃれのようなことをもし聞かされても、だまって世界に誇るほど従順に付き従ってそのときに避難所に連れて行かれた挙げ句に感謝する国民でありつづけるのだろうか?

バカも休み休みやってほしい。

繰り返すが、IAEAの基準が正しいとか、国の判断が妥当でないとか、そういう議論をしているのではない。
命に関わることを勝手に判断して、押しつけるのはやめにしてほしい。
「断片化」した市民が抱えている不安を、政府や東電や安全委員会の風呂敷包みで、勝手に括ってしまうような対応ではなく、一人一人の選択が、命がけだからこそ尊重される仕組みがほしいのだ。

私達は絶対的に「断片」としてしか「自然」の猛威・「自然=人為」の恐怖・そして個人的な「死」と向き合うほかないのです。

自分の健康や死について、国が安全だと言ったから、みたいな一元管理は実はなじまない事故なのではないか?

原発事故については、低線量長期間慢性被爆の結果など、だれにもまだ分からないのだという。
だったら、不安になるのはむしろ当たり前なのではないか。
学問的に限られた条件の中で正確なデータをもらったところで、市民は安心もしなければ納得もしないのだ。
国や東電の「妥当な安全性」が壊れた現実の中で私原発事故の被災者が日々生きている、ということに、その真っ只中にいる市や県の職員は、どうして思いが至らないのか。

二つの出来事に共通の謎を感じる。

「日常性」の回復、と世界の裂け目の関係について、また考えるべきことが増えた。