龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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4月17日(日)のこと<息子のタイル修理と世代交代>

2011年04月17日 22時07分22秒 | 大震災の中で
3/11の大震災は、瓦が多数飛び散って難儀したが、4/11の余震では壁のひび割れが余計にひどかった。

最初の振動で弱っていたせいもあるかもしれないが、余震では風呂場のタイルが何枚も割れたり落ちたりひびが入ったりして、参った。
子供の頃から図画工作と技術は成績が悪かった。とりわけ図工は評定1をもらったこともある。
そんなわけで、風呂場の補修など自分では絶対に出来ない。しかし、震災後の住宅補修関係の業界はほぼ絶望的な状況だ。
材料は入らないし、職人さんの人手も(原発の放射能漏れのせいで避難した人も多く)不足したまま。
ちなみに同じく瓦が飛んで雨漏りしてしまっと同僚が、市内の瓦屋さんに問い合わせたところ「1000件待ちだ」と言われたそうな。
1000件って……。
ま、断る口実かもしれないけどね。
復興建築景気を当て込んで材料を確保しているその方面の方々も多いとか。

いずれにしても、家の修繕は震災後の被災者にとって難問題である。

そうなれば仕方がないのでDIY。

ホームセンターに出かけてみたものの、お客さんが群がる場所はほぼ一緒。
防水のパテとか防カビのシーリング材の棚は物資が不足気味である。
なんだか分からないままに手当たり次第に買い込むと、その材料を息子に渡して修繕を頼み、自分は遠くから見物するしか能がなかった。

息子はなにやら粘土細工よろしくスイスイと割れたタイルをはがし、パテや接着剤、コーキングだかシーリングだか、練り歯磨きのお化けみたいなものと粘土をとっかえひっかえしながら、半日もかからず補修を終えてしまった。

自分が苦手なことを息子が軽々とやってのけるのは有り難いかぎり、のはずである。実際、とても助かった。
けれど、なんだか身の置き所がないような、なにやら逆上しそうな、不思議な気分におそわれた。

こんな大震災でなければ業者の人に頼んで直してもらったに違いない。
しかし、頼んでもしばらくはらちがあかない、となれば、自分で自分の家は守らねばならぬ、ということになる。
そして、オヤジが死んだからには、私が家の長(おさ)である。守り、直すべきだ……知らず知らずのうちにそういう役割を震災後に担っていたつもりだったのだろう。
瓦の崩落にしても、父の葬儀にしても、なんとなく頼まれもしないのになんかを「背負って」いたのだね。

でも、風呂場の補修は圧倒的に息子のほうが上手かった。

90歳を過ぎてはいても、父親がいるうちは、きっと私は「子供」だった。
それなのに、息子(孫)がすぐに登場してしまっては、立つ瀬がない。
震災後一か月足らずで息子に役割を譲ってしまったような、敗戦処理の中継ぎになったような気分におそわれた……、そんな風にも考えられる。

そうでなければ、息子のDIYでこんなにそわそわする自分の気持ちが、あまりに唐突で説明がつかないのだ。

これはいろんな意味でびっくりだった。

若い頃から、自分は「家を守る」などどいう心性とはおよそかけ離れた存在だとおもっていたし、家とはある種の道具めいたもので、所詮仮の宿だと軽く見ていた。
ところが震災後「家」というものは、人間の生活の安定にこれほどまでに欠かせない重要不可欠なモノだと知った。

そしてもうひとつ、その家を守るのは自分だと「知った」瞬間に、既に息子への世代交代が始まっていることを「知った」のだ。

もう少し早く「家守」の文化を内面化していれば、父親の死と震災とが一度にやってきたからといってあわてることはなかっただろう。

この話、もしかすると多くの人には通じないかもしれない。

だれであろうが家の修理をやってくれるならラッキー、っていう発想は、私が「子供」であったとき、そして、震災で家の大切さを知らなかった時までのモノだったのだし。

これは、実際の家屋の修理という話ではたぶんなくて、でも、実際に人間の生きられ得る空間を分割するほとんど唯一の物理的な質料である「家」という存在の、意義の話だ。

息子に「父親」の領域侵犯をされた、ということではないのです。そんな縄張りの話はしていない。それじゃ「王殺し」の話になっちまう(笑)
そうじゃなくて、バトンが知らぬ間に手渡されて行ってしまっていることに気づく、というか。

それは、たぶん、一年前、二十年も老夫婦だけで住んでいた隠居所に、「放蕩息子」的な私が帰還してきたときの、父親の気分でもあったのではないか、と思い当たったことが、本当の逆上の発端だったのかもしれない、と、今書いていて考えてはじめている。

父親は、ようやく始まった私=息子との同居を喜んではいたと思う。
「これからはなんでもお前に任せるから」
といって、ことあるごとに家に関わる全てのことを説明しようとしていた。

でも私は父親の話を真面目に聞こうとはしなかった。
去年の今頃私はただ、年寄りのそばにいればそれでいい、とだけ思っていた。

本当に「放蕩息子」みたいなもので、父親にとってはあまりにも頼りがいのない子どもだっただろう。
父親本人は、次第にお迎えが近くなってくる自覚の中で、一向に真剣に「遺言」を聞こうとしないバカ息子にやきもきしどおしだったのだろうと、今になって後悔が身にしみてくる。

一方息子は私と違って「家」や「家族」を手渡されることに自覚的であり、それを積極的に引き受けるタイプだ。

だから「放蕩息子」は、父親に対しては最後まで「放蕩息子」でありつづけ、子供に対しては「放蕩親父」でありつづけ、結果としては手品のすり替えの身振りのように、実体を持たぬまま、一代飛ばしでバトンをじいさんから孫について渡す敗戦処理の中継ぎ投手の役割しか担っていなかったのではないか、と「遅れて」気づき、逆上したような気がするのだ。

たぶん、そんなことは父も息子も考えてはいないのかもしれない。

そしてきっと風呂の修繕ごときで何を大げさな、と人は言うのだろう。

その通りなんだけどね(苦笑)

「放蕩」かつ「軟弱」な中継ぎに徹するのも平和な時代の「処世術」としてはそれでもよかったのかもしれない。

でもこの震災で世界像はすっかり違ってしまった。

敗戦処理でも中継ぎでも、どんなバトンであっても、つなげられるモノはつないでいくべきだし、滅び去るモノは、潔く退場すべきときがきたのだろう。

何を引き継ぎ、何を捨てるのか。

大震災と身内の死を重ねて考えずにはいられない今の私にとっては、二重に大きな課題となっていることを自覚させられた1日だった。