職場の高校が、地震のために使用不可となった。
一学期は大学のキャンパスに仮住まいをし、二学期から、校庭に建てる予定のプレハブに。
そのため、学校の再開はほぼ一ヶ月遅れることになった。
偶然というか、大震災の被害のために、授業再開が遅れることになったわけで、そのマイナスは計り知れない。
部活動も場所の確保に苦慮しているし、授業も仮住まいでは、実技教科はどうしても実施しにくいだろうし。
人事も被災を考慮して凍結中で、それはいいのだが、講師の人は新しいところに配置され、教諭は赴任凍結のため、人員に偏りも起きている。
未だに校舎には水が出ないままで、使用禁止の建物から、使用可能な場所へ荷物を移すのが日々の仕事だ。
そんな風にいろいろ大変だが、極めて個人的な感想として、こんな風に異常なほど大きな災害がおこっているときは、みんなで大変だ、大変だ、といいつつ、人がそこにいてくれるのなら、それ以外のものが損なわれた不便な生活をすることは、むしろ必要なことなのではないか、とすら思う。
被災の負の側面は、強いられて体験するべきものではないのは当然だ。
避難など、しないで済めばそれに越したことはないに決まっている。
そして無論、現代の生活においては、インフラは、一刻も早く回復してもらわなければ私たちはもはや生きる術を失っている。
けれども、たとえどんなに大きな悲劇ではあっても、さらにそれを乗り越えて生きようとする限りにおいて、個人はその世界の裂け目に瞳を凝らして、精神の糧としていくよりほかに、生きるてだてはないのだ、ということを「知った」のである。
葬祭場がしまっていて家でお通夜を個人とゆっくりしみじみ過ごせたことも、水もガソリンもないまま、家族総出で飛び散った瓦をひろい、屋根に上がってシート掛けを親子でやり、手分けして水をもらいに並び、家族がチカラを合わせて非日常の危機と向き合うことができた。
これは、人生の中で掛け替えのないとても濃密な時間になったと思う。
不幸な事故の不安ゆえに依存したり、むやみに高揚感を覚えたという側面がなかったかどうか、は後で検証する必要はあるだろう。
でも、私たちが家族と家という社会の中のシステムに支えられることによって、災害の一時期を、乗り切ることができたのは間違いない。
学校の校舎も、私たちが教育をする上では必要不可欠のインフラだったのだと、つくづく感じている。
一旦そこに基づいて成り立っていた生活が失われてしまうと、立て直すのは非常に難しい。
他方、流浪の民になってしまった「被災」の当事者として考えると、失われたものをじっくり考えることによって、普段無前提に前提としていた事柄をしっかりと見つめ直すとてもいい機会にもなる。
かけがえない必要なモノについて再確認する機会であると同時に、日常を支える基盤を失った時、われわれはどうその生活を捉え直すか、という機会でもあるわけだ。
以前と同じ日常への復帰を望むと同時に、決してもはや後戻りできないところにきてしまった、という実感も手にする、ということ。
どんなことについても、光と闇はついて回るものなのだろう。
そしてそれは、おそらく、決して単なる合理的な説明や説得によって内面化できる種類の経験ではない。
単純な経験主義を唱えたいのではなく、私たちは、どんなに理不尽な出来事=自然であっても、それを畏れつつ瞳を鍛える必要がある。
「畏れ」の共有をもたない安易な日常の回復に繰り返し疑念を表明するのはそういう理由からだ。
危険を言いたてて、不安を煽る狼少年症候群の身振りをなぞりたいのではない。
これほどの自然=人為が層をなして迫って来る「未曾有」の事象については、冷静に現実をみつめ、分析して共有するためには、
「もっと畏れを共有する身振りに繰り返し明示的に戻りながら語ること」
が、公共的言説空間を保証するためには大切なのではないか。
法律とか、さまざまな社会規範や慣習、常識と、その「畏れ」は衝突するのだろう。
冷静に論理を展開することは、どんなときでも大切だ。いくら考えてはいても、できることとできないこともある。
ただ、それでも自然=人為についての「畏れ」を見失ってはならない。
それは安心するか、不安がるか、とは別の次元のことだと思うのだが。
不安を取り除くことは、それはそれで大事なんだけどさ。
一学期は大学のキャンパスに仮住まいをし、二学期から、校庭に建てる予定のプレハブに。
そのため、学校の再開はほぼ一ヶ月遅れることになった。
偶然というか、大震災の被害のために、授業再開が遅れることになったわけで、そのマイナスは計り知れない。
部活動も場所の確保に苦慮しているし、授業も仮住まいでは、実技教科はどうしても実施しにくいだろうし。
人事も被災を考慮して凍結中で、それはいいのだが、講師の人は新しいところに配置され、教諭は赴任凍結のため、人員に偏りも起きている。
未だに校舎には水が出ないままで、使用禁止の建物から、使用可能な場所へ荷物を移すのが日々の仕事だ。
そんな風にいろいろ大変だが、極めて個人的な感想として、こんな風に異常なほど大きな災害がおこっているときは、みんなで大変だ、大変だ、といいつつ、人がそこにいてくれるのなら、それ以外のものが損なわれた不便な生活をすることは、むしろ必要なことなのではないか、とすら思う。
被災の負の側面は、強いられて体験するべきものではないのは当然だ。
避難など、しないで済めばそれに越したことはないに決まっている。
そして無論、現代の生活においては、インフラは、一刻も早く回復してもらわなければ私たちはもはや生きる術を失っている。
けれども、たとえどんなに大きな悲劇ではあっても、さらにそれを乗り越えて生きようとする限りにおいて、個人はその世界の裂け目に瞳を凝らして、精神の糧としていくよりほかに、生きるてだてはないのだ、ということを「知った」のである。
葬祭場がしまっていて家でお通夜を個人とゆっくりしみじみ過ごせたことも、水もガソリンもないまま、家族総出で飛び散った瓦をひろい、屋根に上がってシート掛けを親子でやり、手分けして水をもらいに並び、家族がチカラを合わせて非日常の危機と向き合うことができた。
これは、人生の中で掛け替えのないとても濃密な時間になったと思う。
不幸な事故の不安ゆえに依存したり、むやみに高揚感を覚えたという側面がなかったかどうか、は後で検証する必要はあるだろう。
でも、私たちが家族と家という社会の中のシステムに支えられることによって、災害の一時期を、乗り切ることができたのは間違いない。
学校の校舎も、私たちが教育をする上では必要不可欠のインフラだったのだと、つくづく感じている。
一旦そこに基づいて成り立っていた生活が失われてしまうと、立て直すのは非常に難しい。
他方、流浪の民になってしまった「被災」の当事者として考えると、失われたものをじっくり考えることによって、普段無前提に前提としていた事柄をしっかりと見つめ直すとてもいい機会にもなる。
かけがえない必要なモノについて再確認する機会であると同時に、日常を支える基盤を失った時、われわれはどうその生活を捉え直すか、という機会でもあるわけだ。
以前と同じ日常への復帰を望むと同時に、決してもはや後戻りできないところにきてしまった、という実感も手にする、ということ。
どんなことについても、光と闇はついて回るものなのだろう。
そしてそれは、おそらく、決して単なる合理的な説明や説得によって内面化できる種類の経験ではない。
単純な経験主義を唱えたいのではなく、私たちは、どんなに理不尽な出来事=自然であっても、それを畏れつつ瞳を鍛える必要がある。
「畏れ」の共有をもたない安易な日常の回復に繰り返し疑念を表明するのはそういう理由からだ。
危険を言いたてて、不安を煽る狼少年症候群の身振りをなぞりたいのではない。
これほどの自然=人為が層をなして迫って来る「未曾有」の事象については、冷静に現実をみつめ、分析して共有するためには、
「もっと畏れを共有する身振りに繰り返し明示的に戻りながら語ること」
が、公共的言説空間を保証するためには大切なのではないか。
法律とか、さまざまな社会規範や慣習、常識と、その「畏れ」は衝突するのだろう。
冷静に論理を展開することは、どんなときでも大切だ。いくら考えてはいても、できることとできないこともある。
ただ、それでも自然=人為についての「畏れ」を見失ってはならない。
それは安心するか、不安がるか、とは別の次元のことだと思うのだが。
不安を取り除くことは、それはそれで大事なんだけどさ。