知人<仙人広場>がブログで書いていた共同体と公共性の差異、が気になっている。
国が基準で定めたから、と県がその基準に従い、学校の現場作業員たる教師はその指示に従って動く。
3.8マイクロシーベルト/h
地上何センチだったか忘れたけど。
このルールは何を基盤として流通するのだろう。
どういう共同体の前提があるのか。
あるいはどういう「公共性」の基盤に支えられているのか。
こんなルールは、この原発事故の持つ負の「公共性」に対応・対抗できてるんだろうか、と考えて、不安になった。
原発事故に「公共性」なんて下手な「比喩」を使うな、と怒られるだろうか。
しかし、比喩のつもりはない。
この事故は、「公」のものだ。
それに対して、3.8マイクロシーベルト/h以下の基準値を満たしていれば校庭で活動しても「安全」です、という国のアナウンスを待っていた福島県とか、その指示を待っている福島県内の学校現場には、「公共性」の意識があふれているようには感じられない。
共同体的な納得さえ存在しない。
擬制的共同体のアノミーを感じるだけだ(小室直樹による)
誰かが「安全」だと決めてくれれば、それに従う
という感覚だけがある。
これはものすごく「気持ち悪い」。
ここには、誰かが決めるしかないとしたら、それを決めるなら国だろう、みたいな開き直りはある。
そして、この開き直りは「思考停止」を伴っている。
そこが気持ち悪いのだ。
原発事故の危険性それ自体は「負」の不安とともに、私達を「公」の場に送り出した。
だが、私達が持っている仕組みは、原発事故の飛散放射能がもたらす放射線量に対する、文部科学省による安全基準値の設定以外に、「公共的」なるものを提示して立ち向かっていくことができていない。
ここには、仕方がない、という「共同体」に馴致されてしまった心性が見え隠れする。
生きている共同体の論理ではない。擬似的に制度化した、長いものには巻かれろ的な「死んだ場所」の論理だ。
少なくても「公共的なるもの」を共有し、構築しようとする意思と、それに呼応する勇気と連帯は、見えてこない。
そんなものは不要、だろうか。
私達の生命と安全を守るために、「制限区域」とか「安全基準」とか「避難」とか、そんなことしかできないのだろうか。
闘っているのは、東電の経営者ではなくて、現場作業員。
地域にいるのはお上ではなく、市民。
東京の指示に従い、東京の基準に従い……それって、原発事故と同じじゃねえ?
と、ふと思う。
共同体の内部でのみ通用する「ルール」と、公共的なるものを構築していく中で「通用していくルール」とは、違う、と切実に思う。
哀しいのは、お上からくるルールに私達が「違う」といえるのは、原発事故という負の「公共性」を抱えている限りにおいてでしかない、という自分の擬似的な「共同性」の発想だ。
それでも、ないよりはましだろう。っていうか、抑圧され、そういう場所に追い込まれて現状=原発を肯定させられてきた者たちにとっては、その現状から生まれた「負」の公共性以外に武器はないのだ。
花田清輝的、って言われてしまうかな?
でもせめて「弱さ」を武器に、「傷ついた」負の洞穴=原発事故をもう一つの中心に据えて、楕円的発想ぐらいはしておきたい。
設定したルールを守り、想定外のことが起こったら仕方がないとあきらめる……そんな自分たち内部の一元的ルールだけでものごとをすすめる擬制的共同体の一員として生きたり死んだりするのだけは、それだけは願い下げにしたいものだ。
国が基準で定めたから、と県がその基準に従い、学校の現場作業員たる教師はその指示に従って動く。
3.8マイクロシーベルト/h
地上何センチだったか忘れたけど。
このルールは何を基盤として流通するのだろう。
どういう共同体の前提があるのか。
あるいはどういう「公共性」の基盤に支えられているのか。
こんなルールは、この原発事故の持つ負の「公共性」に対応・対抗できてるんだろうか、と考えて、不安になった。
原発事故に「公共性」なんて下手な「比喩」を使うな、と怒られるだろうか。
しかし、比喩のつもりはない。
この事故は、「公」のものだ。
それに対して、3.8マイクロシーベルト/h以下の基準値を満たしていれば校庭で活動しても「安全」です、という国のアナウンスを待っていた福島県とか、その指示を待っている福島県内の学校現場には、「公共性」の意識があふれているようには感じられない。
共同体的な納得さえ存在しない。
擬制的共同体のアノミーを感じるだけだ(小室直樹による)
誰かが「安全」だと決めてくれれば、それに従う
という感覚だけがある。
これはものすごく「気持ち悪い」。
ここには、誰かが決めるしかないとしたら、それを決めるなら国だろう、みたいな開き直りはある。
そして、この開き直りは「思考停止」を伴っている。
そこが気持ち悪いのだ。
原発事故の危険性それ自体は「負」の不安とともに、私達を「公」の場に送り出した。
だが、私達が持っている仕組みは、原発事故の飛散放射能がもたらす放射線量に対する、文部科学省による安全基準値の設定以外に、「公共的」なるものを提示して立ち向かっていくことができていない。
ここには、仕方がない、という「共同体」に馴致されてしまった心性が見え隠れする。
生きている共同体の論理ではない。擬似的に制度化した、長いものには巻かれろ的な「死んだ場所」の論理だ。
少なくても「公共的なるもの」を共有し、構築しようとする意思と、それに呼応する勇気と連帯は、見えてこない。
そんなものは不要、だろうか。
私達の生命と安全を守るために、「制限区域」とか「安全基準」とか「避難」とか、そんなことしかできないのだろうか。
闘っているのは、東電の経営者ではなくて、現場作業員。
地域にいるのはお上ではなく、市民。
東京の指示に従い、東京の基準に従い……それって、原発事故と同じじゃねえ?
と、ふと思う。
共同体の内部でのみ通用する「ルール」と、公共的なるものを構築していく中で「通用していくルール」とは、違う、と切実に思う。
哀しいのは、お上からくるルールに私達が「違う」といえるのは、原発事故という負の「公共性」を抱えている限りにおいてでしかない、という自分の擬似的な「共同性」の発想だ。
それでも、ないよりはましだろう。っていうか、抑圧され、そういう場所に追い込まれて現状=原発を肯定させられてきた者たちにとっては、その現状から生まれた「負」の公共性以外に武器はないのだ。
花田清輝的、って言われてしまうかな?
でもせめて「弱さ」を武器に、「傷ついた」負の洞穴=原発事故をもう一つの中心に据えて、楕円的発想ぐらいはしておきたい。
設定したルールを守り、想定外のことが起こったら仕方がないとあきらめる……そんな自分たち内部の一元的ルールだけでものごとをすすめる擬制的共同体の一員として生きたり死んだりするのだけは、それだけは願い下げにしたいものだ。