龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

共同体と公共性の差

2011年04月25日 22時16分37秒 | 大震災の中で
知人<仙人広場>がブログで書いていた共同体と公共性の差異、が気になっている。

国が基準で定めたから、と県がその基準に従い、学校の現場作業員たる教師はその指示に従って動く。
3.8マイクロシーベルト/h
地上何センチだったか忘れたけど。

このルールは何を基盤として流通するのだろう。
どういう共同体の前提があるのか。
あるいはどういう「公共性」の基盤に支えられているのか。

こんなルールは、この原発事故の持つ負の「公共性」に対応・対抗できてるんだろうか、と考えて、不安になった。

原発事故に「公共性」なんて下手な「比喩」を使うな、と怒られるだろうか。
しかし、比喩のつもりはない。

この事故は、「公」のものだ。

それに対して、3.8マイクロシーベルト/h以下の基準値を満たしていれば校庭で活動しても「安全」です、という国のアナウンスを待っていた福島県とか、その指示を待っている福島県内の学校現場には、「公共性」の意識があふれているようには感じられない。
共同体的な納得さえ存在しない。

擬制的共同体のアノミーを感じるだけだ(小室直樹による)

誰かが「安全」だと決めてくれれば、それに従う
という感覚だけがある。

これはものすごく「気持ち悪い」。

ここには、誰かが決めるしかないとしたら、それを決めるなら国だろう、みたいな開き直りはある。
そして、この開き直りは「思考停止」を伴っている。

そこが気持ち悪いのだ。

原発事故の危険性それ自体は「負」の不安とともに、私達を「公」の場に送り出した。

だが、私達が持っている仕組みは、原発事故の飛散放射能がもたらす放射線量に対する、文部科学省による安全基準値の設定以外に、「公共的」なるものを提示して立ち向かっていくことができていない。

ここには、仕方がない、という「共同体」に馴致されてしまった心性が見え隠れする。
生きている共同体の論理ではない。擬似的に制度化した、長いものには巻かれろ的な「死んだ場所」の論理だ。

少なくても「公共的なるもの」を共有し、構築しようとする意思と、それに呼応する勇気と連帯は、見えてこない。

そんなものは不要、だろうか。

私達の生命と安全を守るために、「制限区域」とか「安全基準」とか「避難」とか、そんなことしかできないのだろうか。

闘っているのは、東電の経営者ではなくて、現場作業員。
地域にいるのはお上ではなく、市民。
東京の指示に従い、東京の基準に従い……それって、原発事故と同じじゃねえ?

と、ふと思う。

共同体の内部でのみ通用する「ルール」と、公共的なるものを構築していく中で「通用していくルール」とは、違う、と切実に思う。

哀しいのは、お上からくるルールに私達が「違う」といえるのは、原発事故という負の「公共性」を抱えている限りにおいてでしかない、という自分の擬似的な「共同性」の発想だ。

それでも、ないよりはましだろう。っていうか、抑圧され、そういう場所に追い込まれて現状=原発を肯定させられてきた者たちにとっては、その現状から生まれた「負」の公共性以外に武器はないのだ。

花田清輝的、って言われてしまうかな?
でもせめて「弱さ」を武器に、「傷ついた」負の洞穴=原発事故をもう一つの中心に据えて、楕円的発想ぐらいはしておきたい。

設定したルールを守り、想定外のことが起こったら仕方がないとあきらめる……そんな自分たち内部の一元的ルールだけでものごとをすすめる擬制的共同体の一員として生きたり死んだりするのだけは、それだけは願い下げにしたいものだ。


4月25日(月)のこと(その3)<枝野官房長官といわき市長>

2011年04月25日 21時24分34秒 | 大震災の中で
25日の枝野官房長官の会見に、「いわき市」への言及があった。
詳しくは後述のリンクを参照してほしいが、

簡単にいうと、

1,4月22日の官房長官記者会見で、いわき市は全ての制限区域から外れて「普通の地域」になった。

2,官房長官は、そのとき「いわき市の強い要望があって」と説明した。

3,その直後、いわき市長は、「強い要望なんてしてない!」と抗議。

4,25日、官房長官が謝罪して訂正した……

という話。

国=枝野さんが責任逃れをしようとした的指摘もあるけれど、この場合は(枝野さん的立場から考えると)「地方の意向を汲んで」というアピールだったと見るのが妥当では?

そのアピールは、
「いわき市」=「普通の地域」なんだけど「普通」の中では最前線基地だもんね=臨界面=中途半端な難しい場所なんだよ的側面を、「いろいろ配慮し」た結果だ、というための言及だったのではないか。

いわき市長はそりゃ
「おまえが言ったから安全宣言したんだぜ」
みたいに言われたら立場がないから、当然訂正要求するよねえ。

22日、いわき市長はいわき市HPに市長コメントを発表

http://www.city.iwaki.fukushima.jp/10327/10395/011228.html
(引用開始)
本日、国より「福島第一原子力発電所から半径20キロメートルから30キロメートル圏内に指示していた屋内への退避を解除する。」通知がありましたが、私は本日発表された内容について、4月11日の時点で国から説明を受けておりましたので、いつ屋内退避が解除されるのか気をもんでいたところであります。正直申し上げ、国の対応は遅いと受け止めております。
市民の皆様には、いわき市の「屋内退避地区」指定が解除となり、国が正式に本市の安全性を認めたものであり、あらためて「いわきは安全だ」ということで、御安心していただきたいと思います。
(引用終了)

と書いてる。
「国の対応は遅い」→「早く解除してほしい、と思っていた」
と普通は読める。

正確に読むと、11日には国から聞いていたのにそれが10日以上も遅れて発表になったから「遅い」という文脈なんですけどね。

当たり前のことを当たり前に言っているだけ。タイミングの問題もそりゃあるけれど、どういう「意向」を持っていたのかといえば、「安全宣言」したかった、のは明らかでしょう。

「国の対応は遅い」とは言うが、国に「強い要望」はしていない、というレトリックは正直分かりにくいです、いわき市長さん。


とはいえ、このブログでも繰り返し書いているとおり、正直いわき市が本当に難しいところに立たされているのは間違いない。


ただ、いわき市は、官房長官会見の次の部分は真剣に受け止めて対応してほしいと切に願う。
「安全宣言」だけでは、賭け金を半分にしか張ったことにならない。


>市自らの組織的な避難準備等もしっかりと整えるということなどを前提に

この内容をしっかりと素早く市民に提示してください。

官房長の記者会見では、「いわき市は安全だ」なんて話には全然なっていない。
いつでも逃げられるように準備することを前提に、ってところは25日でも訂正されていないのです。

本当は、国の避難準備区域の指定になるかならないかより、きちんと危険に対する準備がなされることの方が大事。

「安全宣言」でこと足れりとして、「よしあとは復興だ」、なんてなりませんように。

第一原発は、いつまた冷却が不安定になって爆発しないとも限らないのですから。

「よしあとは復興だ」ってのは「市外・県外」の外向きのメッセージでしょう。
もちろん景気づけも必要です。

でも、同時に、きめ細かくいざというときに備えての避難準備計画も進めていくってのが前提になってるはず。

市民はけして安心なんてしていない。
仕事があるから、子どもの友達がいるから、家があるから、年寄りが避難しないっていうから、親戚がいるから、あるいは、ずっと今まで家がここにあったから、肉親とここに住んでいたから、やっとの思いで踏みとどまってるんじゃないのか?

その装われた冷静さ、の心意気に通じる言葉を持って、発言してほしい。

心に通じることばは、けっして「いわき市は安全だ」じゃないと思うよ。



------------------枝野官房長官22日&25日の記者会見---------------------

asahi.comからのリンクを参照のこと。

25日記者会見の当該部分
http://www.asahi.com/politics/update/0425/TKY201104250218.html

 「私の22日の記者会見で、計画的避難区域等の説明を行った際、質問に答えて、いわき市からの強い要望により結論を出したと受け取られかねない答えをした。これについて、いわき市長からそのような認識はない旨の申し出をちょうだいした。この点については、いわき市のご意向を忖度(そんたく)したものであったというふうに認識しているし、避難地域等から外れることが期待されるというご意向を踏まえたものであったとは認識しているが、若干それについて十分な認識が共有されずに誤解を招くような発言になった。このことについては、いわき市長におわびを申しあげるとともに、訂正をしたい。先ほど、市長と直接電話で話をし、このような趣旨を説明し、ご理解を賜った。重ねて文章で申し出を頂いているので、文書にて、今のような趣旨をしっかりとお伝えしたい。いずれにしても今回の地域設定は、地元といろいろと意見交換したが、国の責任において設定しているものであることを改めて申しあげたい」



22日会見の当該部分
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104220315.html

 ――20~30キロの間で計画的避難区域、緊急時避難準備区域で両方に該当しない地域と、該当しないとした判断理由は。

 「もちろん、それぞれの地域の線量であるとかリスクというかというものを安全性の観点からしっかりと踏まえた上で、それぞれの自治体の皆さんとこの間、協議をしてきた。具体的に言うと、20キロ~30キロ圏内にいわき市の一部が含まれていたが、ここはどちらの指定もなくなって、そして屋内待避の指示も解除される形になる。いわき市については線量が高いという状況ではない中で、30キロ圏内ではあるが、大規模な放射性物質の放出、つまり、原子炉の悪化というような緊急時に備えて住民の皆さんがしっかりとした万が一の場合に自力で避難ができるという態勢がしっかりと確立されるということがこのエリアの指定の目的だ。いわき市については、市自らの組織的な避難準備等もしっかりと整えるということなどを前提に、いわき市からも強い要望があって、それから安全委員会等の意見も踏まえた上で、その一部について従来の20キロ~30キロ圏内については、そうしたことを踏まえてどの指定もしないということが安全の観点からも可能であろうということの前提に基づいて、市の強い要望に基づいた結論を出した」



4月25日(月)のこと(その2)<いわき市長の安全宣言>

2011年04月25日 13時06分58秒 | インポート
いわき市の市長の4月22日のコメントも、単なる「安全宣言」の身振りに力を入れているのが見え透く、切ないものだった。

引用開始---

市民の皆様には、いわき市の「屋内待避地区」指定が解除となり、国が正式に本市の安全性を認めたものであり、「いわき市は安全だ」ということで、御安心していただきたいと思います。

---引用終了

なるほどね。

(平常時から比べれば相当高い線量が続いているわけだけれど)まあ、一時期に比べれば、そして(こういう感覚がやばい、と自分でも思うのだけれど)他の高い地域に比べれば確かに線量は確かに「低い」。

バカバカしい言い方だが、
「直ちに健康被害を起こすことはない」
という意味では、あるいは
「高地ではこれよりずっと高い線量を浴びている」
という意味では、いわき市は問題ないレベルになってきている。

で?

それがどうして「いわきは安全だ」になるのかが分からない。

風向きと雨の具合によっては、高線量の飛散放射能が降り注ぐ危険はあったわけだし、これからも、原子炉冷却が安定するまでは危険と隣り合わせで「いわき市」は、日々生活していかねばならないはずだ。

実際には、国や東電が「安定冷却」とか言い出しても、フクシマの人たちはもう、冷温状態にならない限り安心しないと思うけどね。

その市民が背負う危険や不安、にもかかわらず子どもたちをここ「フクシマ」に置いておかねばならないジレンマに、上のいわき市の市長のコメントは、どう答えているつもりなんだろう、と、しみじ思う。

まあ、聞かなくても答えはきっときまっている。

「国が安全だから、そういうこともふくめて大丈夫」

っていってくれるのだろう。

市内の「新浜公園」で、基準値を超えた福島市でも、やっぱり「気をつけていれば大丈夫」といわざるをえないんだろうね、行政は。

せめて学校ぐらい、保護者の見方(別にことさら「味方」をしなくてもいいから)に立って話ができないのかしらね。

一方でお役所が安全だ、と言い張るときに、それに疑義をはさむのは普通「変な人」しかできない。
でも、かなり異常なことがおこっているのだから、こういうときは、あまり「常識的」にもの分かりよくお役所のお話を鵜呑みにしないほうが絶対にいいと思うなあ。

「変な人」<インテリチンピラ、とよく言われます(笑)>の出番、ですね。

こういうときは、地元に根ざした自治体ぐらい、「杞憂」でいいから、多少「愚か」でもいいから、安全に大きく針を振ってもらいたいのです。

分かってほしいなあ。
ヒステリックに、非科学的に騒いでるんじゃないのです。

「狼」が本当にやってきたのだから。


4月25日(月)のこと<「保護者のことば」の見方に立てるか>

2011年04月25日 12時38分11秒 | 大震災の中で
連休中、長野の温泉に年寄りと湯治に行こうと思っていたのだが、親子で風邪を引いて身動きが取れなかった。
出発前日の夕刻にやむなく断念してキャンセル。
震災、父親の死、原発事故といろいろあった1ヶ月の区切りをつけようとしたのだが、ちょうどそのぐらいに体も疲れが来るのだろう。

結局家の中で寝込んでゆっくり、という週末になってしまった。

福島県の学校に関して屋外活動基準が文部科学省から示された。
お役所の仕事はどうしてもそうなりがちなのは分かるが、なんとも遅い。

そしてこれから先のこと、保護者の不安などには全く対応できていない、というのもいつものことだが腹が立つし、心配にもなる。

毎日新聞のサイトに載っていた保護者のコメント二つが全てを示しているだろう。

「国は(水素)爆発が起きて線量が一番高かった三月中旬に何もしなかった」

「将来子供に何か起きても『想定外だった』といわれそう」

その通り。

たぶん、この国の行政はそういう風にできているのです。
今回だけじゃなくて、これから起きることについても同じことが繰り返される懸念がある。

問題なのはそこだよね。

つまり、水素爆発の危険性はまだ去っていないのに、もし爆発が起きたら行政がどう対応するのか、どんな避難をすればいいのか。全く示されないままだ。

黙って様子を見ていて、言質を取られないようにし、「想定外」とまずつぶやき、「全力で対応」という振りをし、パニックを起こさないように一部の人間には黙って放射能を浴びてもらい、その後事態が収まってから、だめだったところには「ごめんなさい」、大丈夫なところには「安全です」という。

現状、その程度の対応しかできないのだ。

福島第一原発の周囲20キロの警戒区域に至っては、いつ戻れるのか今のところ見当もつかない状態が続く。

福島県の教職員(小中学校)の採用試験が中止になったという。避難などによる100クラス減のため、とか。
子どもたちの安全を考えれば避難するのは当然だが、残った子どもたちの保護者が、
「もうフクシマはすっかり安全だから」
と考えてフクシマにいるわけではないだろう。
友達のみんながいるところで学びたい、と子どもたちは思う。
だから、踏みとどまっている保護者も少なくはあるまい。
そういう子どもたち、保護者たちに、市は、県は、文部科学省は、果たして十分な手当をしている、と言えるのだろうか。

もちろんことさらに騒ぎ立てるばかりがよいわけではない。だが、どう考えても「安全だ」といって子どもを他の地域より線量の高い土地に縛り付けるだけでは、十分な対応だとはとうてい言えないのではないか。

行政側として、瞬間的に「安全宣言」を敢えてする、というような「手品」が必要なことがあるのは分からないでもない。
しかし、事件が起きてもう2ヶ月目である。
ここからどれだけ手厚い子どもたちへの配慮ができるか。
今後起こりえる危険にどれだけ真摯な対応が可能か。

そこに福島県の未来が、かかっている。
単純に事故のせい、、緊急時なので、予想外だから、といっていればいい時期は、そろそろ終わりじゃないかな。