龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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4月13日(水)のこと(その2)<二項対立を拒む「断片化」と「公共性」

2011年04月13日 23時14分36秒 | 大震災の中で
余震が続くと心が折れる。

今週始めから、また余震が頻繁になった。

一ヶ月過ぎてからの大規模な余震(いわき市は震度6弱)は、心にかなり負担になっている。

そして追い討ちをかけるような再度の停電と断水。

原発も安定した状態になるまでには数ヶ月から数年(首相の言によれば10年~20年 )かかるとか。

普段私たちは、世界を二項対立でとらえ、その一方を一元化してスタンダードとし、その他を残余として捉える思考方法からどうしても抜け出せずにいるのだが、日々「この場所」にいつづけると、

人間VS自然
揺れている/止まっている
安全/危険
サバイバル状態/インフラの安定的提供

という二項対立がここでは「無効」なのだ、ということが身にしみて分かってくる。

地震が起こったり起こらなかったりしているのではない。

揺れ続けている地盤の上に、私たちは常時乗っていて、体に感じない状態が今まで多少長く続いていただけのことだったのだ。

少し前からこだわっている
「人為=自然」
という概念は、そのことを言おうとしているのだった。

それはふたつを対立させ、分けて考えることによって世界を理解し説明しようとするのではなく、断片化してそこにある我々の間に、多層な「人為=自然」が働きとして出現する瞬間がある、ということが分かること、といってもいい。

人為以前にある自然でもなく、人事の果てに隔絶した超越として示される人為以後の自然ということでもなく、波乗りとかスキーとか、サッカーとか、下手くそだとバッラバラな断片化した動きなのに、それがあたかも調和的に存在するかのような一瞬が現出する、プラスとしてよく示されるのはそういう
「人為=自然」だ。

繰り返しになるが、人為を超克することでもなく、自然をコントロール仕切って一元的に管理することとも無縁な営み。

そういう地平が、私たちの日常にも奇跡のように存在したことを思い出させてくれた、ということです。

私はこのことについて、なかなか言葉を見いだせずにいる。

しかし、激しい余震と長引きかつ繰り返される被災、そして原発事故の不安と不透明のために、私たちは今なお繰り返し「この場所」に引き戻され続けている。

だから、日常に戻って忘却装置を働かせることは、もうできないのだと肌身にしみて知ってしまった。

人間の卑小さとか、逆に人為の偉大さとか、何かを見直せばいい、というような、そういう物語に身をゆだねることも難しくなってしまった。

ひとは古来、何度も何度も「この場所」に立って瞳を凝らし、我々自身のなすべき営みを続けてきたのだ。

もう少しで見えそうな気もするし、いつまでたってもそれは見えるものではないのかもしれない。

ただ、誰も愛でるもののいない中で咲くだろう桜たちを想像する瞳と、完膚なきまでにバラバラになった津波の跡の瓦礫たちとを見つめる瞳との中にたち現れるものを、とりあえず


「人為≠自然」&「人為=自然」

といった形で示してみることしかできない。

放射線も、津波も、およそ人為を寄せ付けない自然の圧倒的な力能なのだが、私たちはそれを、おそらく人為という一元的理解の潰滅において知る。

だから、いま「この場所」に立って見つめる自然は、逆説的なようだがあくまで人為において現れているのだ。

壊滅した街をみる衝撃や、原発事故の影響の大きさに圧倒されることは、自然をそのまま感応しているわけではなく、人為に原因を帰するような分析をした結果の残余の大きさに呆れ恐れているのでもないだろう。

それはまたおそらく、表現系の問題、表象の問題ではない。

考えるべきことの中心から少し離れたところを軸として偏心しながらぐるぐるしているばかりなのだが、このことは、もう少しグルグルしながら考えてみます。



4月13日(水)のこと<夜の森公園の桜を見たい>

2011年04月13日 04時45分37秒 | 大震災の中で
こんな時に言うべきことではないのかもしれないが、この際だから(非常時を理由にするのはずるいだろうか?まあともかく)書いておく。

実は以前、将来引退したら富岡町か双葉町の、原発近くに住みたいな、と思っていたことがある。

原発の近くだからという理由で住みたい、と思ったわけでは必ずしもない。

ただそのとき「何も好き好んで原発のそばに住まなくてもいいだろうに」と自問した記憶はあるから、原発を考慮に入れた上でなお老後をそこで過ごしてもいい、と考えたことは間違いない。

今から二十年以上も前のことだ。

たぶん、原発がいずれ廃炉になって産業としてのにぎわいを失えば、もうそこにはあまり人が住まなくなるだろう。そうすればむしろ静かに老後が暮らせるはずだ、などとさえ思った記憶がある。

今の状況から振り返れば、はなはだ不謹慎な「老後設計」というほかない。

いうまでもないが、こんな大事故は想像もしていなかった。

もうそのころは耐用年数が終わって代替エネルギーもメドが立ち、働き終わった原発はたとえ放射能が残留はしていても、静かにひっそりと佇んでいるのだろう、と想像したのだ。
そんなところには、老人しか住まないだろう、と勝手に結論づけ、その中のひとりになってみようか、という程度の空想、いや妄想だった。

どうしてそんな風に心が誘われたのかといえば、まず理由として挙げられるのは、夜の森公園の桜並木を見たからだ。

富岡町の夜の森公園には、何キロも続く桜並木があり、満開の頃は、花吹雪のトンネルの中を散策することができる。

私はこの桜並木を歩きながら、

「ああ、将来この桜を見て老後を過ごしたい」

と感じたのだ。

30歳ぐらいで「老後」などとは、いささかならず胡散臭いといえばいえる。
しかし、私の中では、ソメイヨシノの美しさと、役目を終えた原発と、老後の自分とは、三題噺ではないがしみじみ抒情をさそうものだったらしい。

もうひとつ心が惹かれたのは、隣町である双葉町に白富士という酒を造る酒屋さんがあって、そこの普通酒はとくに美味ではないのだが、蔵元が趣味に近い形で造っているのか、限定ものの
「しずく酒」
というお酒があまりにもおいしかったからだ。

夜ノ森公園の桜を見る時、前の年の暮れにできた
「しずく酒」
を大切にとっておいて、そのふたつを一度に愛でることができたなら最高だ、とそのときは妄想していた。

三つ目の理由は海の幸。

そのまた海沿いに、請戸という小さな漁港がある。

20代の時、先輩の家が請戸の港の近くで、波の音がどーんと聞こえるぐらいのところに仕事半分遊び半分で泊めてもらったことがある。

その晩、テーブルの上にどんと置かれた大ざるから、はみ出しそうなほどたくさんのヒラガニを振る舞われた。
これがもうあまりにも美味しくて、お腹をこわすほど食べたのが忘れられない。

また、港の前にある食堂では、揚がったばかりの魚料理がだべられる。
秋には鮭が溯上してきて、簗場で食べる鮭汁やはらこ飯がまた最高なのだ。

そんな環境で釣りでもしながら毎日を過ごせたら、どんなにかいいだろう……。

あのとき、確かにそんな空想をして楽しんでいたのだった。

今年ももうすぐ富岡町の桜が咲きはじめる。

おそらく、今は誰一人愛でる人もないまま、放射能の中でひっそりと蕾を膨らませているのだろう。

何の深い考えもなく、ふとあの桜がみたいと思う。

高速で車を飛ばせば一時間半ほどでたどり着けるはずの場所なのに、今は遠い別世界になってしまった。

二十年前と同じように咲いているのかどうかもわからない。

そしてあのときみたいと思った桜が咲くのは今から10年後の未来だ。

私はそのときどこにいて、なにをしているだろう。

またあの夜の森公園の桜の下で花見酒を飲むことができるだろうか。

もしそのときまだいわきに住んでいるなら、お気に入りのオープンカーの屋根を開け、高速を飛ばしてあの桜を見に行こう。
なろうかと、
あんなことがあったけど、大丈夫、こんなにきれいに、なんにも変わらずに咲いているじゃないか、と喜んでやろう。

そして、双葉駅の駅前の酒屋さんであのおいしいお酒を買って、請戸の港に寄って魚を調達したら、先に引退しているはずの、先輩の家を訪ねよう。

やっぱり浜はいいね、といいながら飲み明かそう。

あの夏のヒラガニが食べたいといったら、季節が違うだろ、とおこられるだろうか。

そんなことを、ふと思う。



4月12日(火)のこと<避難地域の見直しが始まった>

2011年04月13日 00時14分29秒 | 大震災の中で
いわき市が抱える困難について

避難地域の見直しが始まった。

飯舘村は計画避難地区になったという。
累積線量が高いのだから、当然の措置ではある。しかし、どうしても対応が遅かった、との印象を拭えない。

IAEAの土壌検査の時には国の基準でいえば大丈夫だ、と数週間前には言っていたのに、結局一ヶ月経ってから、累積線量を「考慮」して計画避難に変更された。
でもさ。
この事故が報道されて一週間程度経ったころには、事態が長期化することは子供でも分かる状況になっていたはずだ。

とりあえず「安全だ」といっておけば住民は言うことを聞く、という程度で政治をやられては困る。

リスクを大きめに計算して安全を図る姿勢は、こういう重大な事故の場合こそ肝要だ。

確かに日本人はパニックなど起こさずに粛々と指示通りに動く。だが、それをいいことに「うるかして」おいてから後出しじゃんけんをする政治には、不信感が募るばかりではないのか。

飯舘村については、ずっと最初の頃から国民全体が(いや、国際的にも!)心配していたと思うのだが、いかがなものだろう。

遅っ!
ってか、このタイミングでの変更が妥当だと評価する市民は少ないと思うよ。

さて。
いわき市の場合はもう少し事情が複雑だ。

今回いわき市は「屋内待避指示」対象になっていた久ノ浜地区がその範囲からはずれ、いわき市全域が、避難や待避を
必要としない「普通の空間」(笑)になった。

枝野長官は
「安全性の観点から問題なければ行政区で線を引いて大丈夫だと判断した」(毎日JPサイト2011年4月11日23時48分)
のだという。

それに先だっていわき市長は、計画避難地区に入らないということは、いわき市は安全だと国が判断したのだ、と理解していると主張(FMいわき)。

4月12日(火)の朝日新聞朝刊では、政府は自治体と調整中とあり、同じ4月12日(火)朝の民友新聞(地方紙)では、いわき市長のコメントが掲載されていた。

微妙にトーンの違いが見える。

ここからは推測だが、いわき市長は市内全域の「安全」を強く主張し、それに応じて政府が判断した、というシナリオを想像してしまうのはうがちすぎだろうか。

実際のところ、屋内待避になっているいわき市北部の久ノ浜が、もし計画待避地区に格上げ指定されてしまったなら、避難開始にむけていわき市全体に対し、
「位置について」
のかけ声がかかったのと同等だ。

そうなると、市内の市民はもとより、いわき市にアクセスする物流関係全体が浮き足立ってしまう危険があるだろう。

そういう意味では、市長が指定区域解除を歓迎して早々とコメントを出したのはうなずける。

だが。

たまたま風向きが北西の方向のときに爆発があり、しかもそのときにたまたま降雨が襲ったために飯舘村の線量が結果として上がったのであって、季節によっては、あるいは今後の爆発と風向きによっては、いわき市にも高線量の放射能が降り注ぐ危険がなくなったわけではない。

そういう意味では、いわき市は難しい舵取りを迫られている。

ある意味でいわき市は、日常生活と原発による「空白の闇」との臨界面ともいえるかもしれない。

一方で「危険だ」と声高に叫べば物流もおぼつかなくなるし、市民も逃げ出してしまう。そしてもし一旦雪崩を打って避難開始、となれば、それ以後の市民生活が成り立たなくなる。

他方「安全だ」といわれて市内にとどまっていれば、結果としては最前線でリスクを意識しつつ日常を生きることになるだろう。その「安全」のかけ声に慣れてしまえば、いざ事故が深刻化したときには準備不足で逃げ切れない、というリスクを背負うことになる。それはかつての福島県民の姿そのものではないのか、という疑問もわいてくる。

いずれにしても難しい。

とりあえずいわき市民としては、いわき市全域の屋内待避解除を受けいれ、飛散放射能の線量が低いうちにできることをできるだけやるしかないのだろう。

津波被害がひどい海岸沿いは、原発事故による汚染の風評が忌避の原因となってか、もう一ヶ月もそのまま放置されてなんの手もいれられてこなかった。

市長が強調する「安全」は、そのあたりの事情に関わる葛藤を踏まえてのことか。

放射線量の比較的低い今の時期、復旧活動を支援してもらうにも、自分たちで動くにも、「安全」宣言が不可欠だったんだよね。

結果、そのまま原発事故が沈静化していけば申し分ない展開になるのですが、都合のよい楽観ほど緊急時に危険なモノサシはないことも確か。

そこにあるのは危険と背中合わせの「安全」なのだと理解し、いわき市民はここからしばらくのあいだ、注意深く「装われた日常」を生きねばならないのかもしれない。

あ。

でもさ、もしかするとそれは別にことさら言うまでもない、誰にでも当てはまる当たり前のことなのかもしれないね。

ただ日常に埋没しているときには気づかないでいるだけのことで。