龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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公共的なるモノからもっと遠い者、それは擬制的共同体?

2011年04月28日 22時29分10秒 | 大震災の中で
思いついたままのことを毎日記録していこうと心に決めて、3/11からのことを書き続けている。

父親が震災前に入院し、震災後、病院閉鎖寸前のところで亡くなったことも自分にとって大きい出来事ではあった。
が、その「プライベートの一大事」だけだったら、けっしてブログを毎日書こうと考えはしなかっただろう。

また、大震災の被災者というだけのことだったら、私よりも大変な思いをした人はたくさん居るし、考察を発表すべき人も、リアルタイムで報告すべき現場で闘っている人も、他にたくさんいるに違いない。

私が特にゴミを増やすには及ばなかった。

しかし、死に向かおうとする父の姿と、家の瓦が落ち、水も無いところに原発が爆発事故を起こして放射能を飛散させ、圧倒的な破壊をもたらした地震と津波の中で、仕事場である高校も震災被害を受けて立ち入れない状況になったとなると、自分の身の回り全てが非日常の裂け目に放り投げられた状態だと否応なく気づかされる。

そんな中で考えたことをゴミ箱に捨てる反故のようにであっても、毎日書き落としていくことは、とにかく必要だと考えたのだ。
自分にとって?いやいや。
他人のために?まさか。
でも、この現場に立ち合ったときのことを、無力ながら書いておくべきだろう、とは思った。
もう少し筆力があるのなら、お昼ご飯と犬の散歩のことだけ書いていても、この状況の貴重な描写になったのかもしれないが、残念なことに、そういうことは無理。
だから、素朴におもいついた疑問をできの悪い連想ゲームのように続けていくしかなかった。

そうやっているうちに、
「自然」と「人為」の関係に目が行き、
「公共的なるもの」に関心が向いてきた。
あとはやはり「隙間」に瞳を凝らすことの大切さ、かあ。

理屈の整合性ではなく、傍らに立ち続けて「共振」することの大切さを学んだのかもしれない。

「間」、とか「痕跡」、とかずっと言葉はいじってきたけれど、ようやく身をもって生き始めている感触がある。

それを十分説明はまだできていないけれど、自分と世界とを見つめ直す、とてもよい演習の機会を与えてもらったと思う。

そういう意味では、神様に感謝したい。

だからといって、人は幸福からは学べないものだ、などとは思わない。
きっと、私が幸福からきちんと学ぶことができないほど愚かだっただけだ。

それで、今日思いついて、明日には忘れてしまうかもしれないことを一つ、メモしておきたいと思う。

天皇制のこと。
天皇ご夫妻が避難所を訪れ、膝を屈して被災者ごとに耳をそばだてて(お二人ともご高齢、ということもあるのだろうが)話をひたすら聞く姿勢は、私を勇気づける。

でも、その天皇夫妻の姿をみると「日本人が皆癒される」と報道されると、いささかむっとする。


この天皇夫妻、つまり「日本文化」を統べる象徴天皇二代目は、「日本人」にしか通用しないとこの人たちは思っているのだろうか、と。

私にとっては、天皇夫妻の避難所訪問は(むろん日本の宮内庁的政治パフォーマンスの関数に関わるのではあろうが、それでもなお)、「世界」の問題であり、「自然」の問題でもあり、「宗教」の問題でもあるのです。

日本なんていう「共同体」だけに帰属させるには勿体ない。

このあたり、太田光=中沢新一=宮台真司系列の発想、ってことに分類されるのかもしれないけれども、私は「日本」を称揚する共同体主義的な文脈に「絶対化」されてしまうことは、天皇を結果として矮小化する手続きに入ってしまうのでは、と思うのですよねえ。

だって、文化と伝統を司る「王」が、被災民に膝を屈して「共鳴」するのよ。
これは「世界」と「自然」と「人為」の関係を記述するべき宗教性を持つよねえ、どう考えても。

その「力」を「社会」とか「共同体」としての「日本」に回収してはほしくない。

「公共的なるもの」の場所に、この祈りを送り出す手立ては本当にないのか?

スピノザ関係本を2ヶ月ぶりに開いて、連休の始まり、そんなことを考えはじめています。

今、この天皇夫妻の身振りと、日本という「社会」や日本という「共同体」の枠組みだけで受容して終わってしまうことは、東日本大震災を「国難」と捉えるぐらいアナクロだと思ってしまうのです。
勿体ない!
この項、つづく、ですね。

本当の弱者は共同体の中の「蛙(かわず)」なのかも。

2011年04月28日 20時56分03秒 | 大震災の中で
今日書いていて、改めて考えたことは、

本当に「公共的なるもの」から一番遠い者は、擬制的共同体(たとえば役所、たとえば企業、たとえば学校)の中の「蛙(かわず)」たる私(たち)なのかもしれないってことです。

他人が「他者に対して閉じている」、と戦闘的になるのは割合簡単なのだけれど、「公共的なるもの」に対して瞳を開くこと自体、難易度の高い技なんだなあとも。

なにやら力んで「正義の味方」になってもしょうがないしね。

いろいろ考えちゃいました。

大阪市で、透析患者用避難所が利用のないまま閉鎖。

2011年04月28日 20時34分41秒 | 大震災の中で
大阪市で、透析患者用避難所が、総工費1億円以上かけて準備されたけれど、実際には「遠い」ということで1件も利用されないまま閉鎖される、というニュースを昨日見ました。

なんだか切なくなりました。
ムダっちゃムダですよね。
でも
>平松市長は27日の定例会見で、「緊急時、命に関わるという状況でのバックアップを
>させていただいた。結果的にそうだからといって、何もかも無駄にしたのか。
>バックアップってそういうものじゃないですか?」と語りました。

納税者に対する弁明の言葉として十分かどうかは分かりませんが、被災地に住む者としては、その気持ちと準備を心から感謝すると共に、1億円以上のことはとうてい死ぬまでできないけれど、そういう風に「バックアップ」してもらったいっけん「ムダ」に見えるようなことでも、どこかで誰かにバトンタッチしていきますから、とエールを送りたい気持ちになりました。

それで思い出したことが一つ。

福島市から、外国に避難しなくちゃならない人を送り出そうとして新潟周りで大阪まで行き、ようやく1週間かけてオーストラリアに避難する人を送り出した友人がいます。

その友人が、一仕事終えて関西に逗留していたら、避難してきたのか、と堺市の人に問い合わせを受け、
「いや避難民というわけじゃないんだけど」
といいつつ話を聞いてみたところ、堺市では避難民のための住宅を2000戸用意する、というのです。
友人は、その話を聞き、行きがかり上福島市と連絡を取って、避難のコーディネーターみたいなことをすることになったのです。

ところが。

福島市のお役所の担当者は、堺市の避難住宅を、福島市に避難してきた人に斡旋することはできません、という回答を返してきたというのです。

つまり、福島市に避難してきたのに、さらに自分の市から別のところに避難しろといったら、福島市では安全ではないからということになってしまうから、ということなのかな?

理由はともあれ、とにかく堺市の避難住宅への避難民の斡旋は、福島市役所ではできないっつー話になったそうです。
でもさ、福島市は体育館に数百人とかいう避難所なわけですよ。片方は2000戸用意ですよ。
堺市では、迎えにも行く、足も用意するっていうのです。
劣悪な環境に黙って押しとどめるお役所って、なんなんでしょうね。

結局そちらの話は南相馬市長さんの方に個人的な連絡網でつなげたそうですが。


大阪市の透析患者さん用の避難所の利用がなかったっていうのは、もしかすると、友人の話の中の福島市のお役人のように、あるいは私が今日おつきあいさせられた福島県の誰か分からないけれどお役人のように、コーディネートして最適なサービスを避難しておられるフラジャイルな状態の人々に提供しようという気持ちがない輩が、隙間を埋めようとしなかったこととに、原因の幾分かは求められるのではないかな、なんて想像しました。

この案件についてはもちろん空想の域をでません。
でも、需要が全くなかったというよりは、適切な情報もサービスも、末端まで届いていないってことは、非常に高い蓋然性を持って想像できます。

私がここで繰り返し書いている「公共的なるもの」に対する瞳の健康さっていうのは、共同体なり社会制度の「人為」が裂け目を抱えたとき、弱い者からその裂け目・隙間に飲み込まれてしまうから、「公共的なるもの」っていうのは、その裂け目に瞳を凝らさないとだめなんだってことです。

共同体的なるものや、社会的なるものは、「人為」のリミットの中で「自然」と出会った時、決定的に無力だと感じるのです。

「公共的なるもの」に対する視線は、そこでこそ立ち上げられなければならない、と思う。

フラジャイルなもの、その場所に立って支えを失い声を失い「あえか」な状態になってなお「生きる」ことを受動的に選ばされたもの。

「公共的なるもの」はそういう地平を否応なく開いているし、公共サービスは、その「公共性」に対して開かれていなければならない。

公務員の一人として、こういうときに守備範囲を墨守している外野にはなりたくないものです。

むろん、法律をないがしろにしていい気分で権力を私物化した公務員が、スーパーマンよろしく人助けをするようなナルシシズムを推奨しているわけじゃありません。

良質な従僕は、木で鼻を括るような「執事の言」に満足するのではなく、規範をないがしろにするのではなく、しかも「主」の意図を汲みつつ、可能な限りのサービスを探し求めるものでしょう。

大阪市の「バックアップ」の信号に対して、フクシマの「従僕」たちは十分に応えるアンテナを持っていたのか?
本当に無用の長物だったのか?

被災を受けている側のお役所は正直それもまた「戦場」だろうと思います。
いっぱいいっぱいで、「最適解」なんて出せるはずもない。
一つ一つの対応には、悪意があるというより、混乱とむしろそこにも二次三次の被災の「結果」が隠されているのかもしれない、とさえ想像することも必要でしょう。

そういうときだからこそ、隙間を埋める仕事ができればいいんでしょうね。
応えてもらえない不幸を嘆いたり不実を憤ったりすることもあるだろうけれど、何ができるか、どんなサービスが重要なのか、そしてそれをどうタイムリーに届けられるか。

ボランティアのベテランとかサービスの熟練者は、きっとそのあたりのバランスを見ながら仕事を進めていく感覚がプロなんでしょうねえ。

んー、ちと、仕事でいろいろこれから頑張らねば。
実は災害が一段落してからがサービス業の勝負、かもしれませんね。

とにかく大阪市や堺市の「バックアップ」の心意気は受け止めたいです。
震災を身近に肌身に感じるからこそ、反応が早くて適切だったんじゃないかな。
むしろ、震災素人の側が、そのサービスを使いこなせなかったのかもしれません。
その上で空振りはお互い残念だから、どうサービスを提供できるか、もは考えていってもらえたら、と思います。
大阪市も頑張れ、マイペース!







4月28日木<今日びっくりしたこと>

2011年04月28日 18時07分48秒 | インポート
今日びっくりしたこと
私の勤務する福島県立の高校では、双葉・浪江地区の高校生がたくさん編入してきます。
今日の午前中、オリエンテーションがありました。

びっくりすることに、教科書と副教材は、自費、との連絡が管理職からありました。

被災者の流された購入済み教科書は、無償で再配布されますが、転入の場合は流された教科書ではないので、無償配布の対象にならない、とのこと。

もしもし、っていうかんじですよねえ。

災害の救済のための法律は、流された「モノ」の補填が目的。流されたものと同じものなら対象になるけれど、人間が移動したことによって生じる教科書の変更は、対象にならないというのです。

でもさ。被災者は、誰でもやむを得ず、元の場所に住めなくなったから、移動するわけじゃん?

今避難して、転校していっている人々は、どこの県でも高校生は教科書・副教材を自費で購入することになってるのかなあ。

同じ高校生で、転校を強いられた生徒は結果的に自費で、同転校せずただ同じ高校には通えるけれども教科書が流された人は保障されるってのは、現場的にはい納得がいきません。

仕方がないから、個別に出版社に電話。
すると、
「本当に県がそう言ったんですか?」
と聞き返されました。
ま、普通そうだよね。

なんとなく雰囲気は推測できる。
法律上、流されたものと別のものにはその予算は使えないって縛りがあるのかもしれない。
ともあれ、別の形でなんとかしなくちゃならないのはお役人だって百も承知だろう。
でも、今オリエンテーションをやるこの時には、被災して転校した結果、新しい学校で使う教科書は「自費」です、と、取り合えずばアナウンスしなければならない。

それに手当する場合は、法律上、別の予算を考えなければならないから。
そして、該当する法律がなければ、残虐ではあっても、お役人はとりあえず今のところは木で鼻をくくるような答えをするしかない。

いずれなんとかはするのでしょう。

とりあえず現場の私たちが、出版社におねだりをすることになるわけです。それでいいっちゃいいんだけど。

でも、組織的対応のレベルだべさ、政府指示による避難範囲なんだぜえ。

教科書代も東電が保障=補償すべきだってのは、まあ理屈としては成り立つけどさあ。
なんか、極めて釈然としない思いをいだきました。

つまりまず「人」、じゃなくて先に「モノ」と「カネ」と「手続き」なんだよね、ここでも。それが違和感を覚えた理由。
まあ、義務教育ではないわけだし、自分で使うものなんだから、費用負担はあってしかるべき。
被災者だから全て無償であるべきだ、と決めつけたいわけじゃないのです。

でも、なんか隙間があくと、弱い立場の人、つまりは被災している方に、結果としてしわ寄せがいく危険性は大きい。

人間の仕事は、本来そういう隙間の場所でしていくべきものなんだなあ、と改めて思いました。

オレらが声を代わりに上げればいいんだよね。お役所が「正しくない」のではなくて、法律がそうなんだから、それに不満を持ってもとりあえずは仕方がない。
どうすればいちばんいい方法が選べるのか、間に入ってきちんとした情報やモノやお金や、感情までを含めて、流通をサポートしていくのが仕事なんだなあ、と。

とりあえずは教材確保、です。