大方廣佛華嚴經・金剛幢菩薩迴向品第二十一之一
「爾時金剛幢菩薩は佛神力を承け、菩薩明智三昧に入りて正受す。正受し已りて十方各の百萬佛刹微
塵數に等しき世界之外を過ぎて各の百萬佛刹微塵數の諸佛を見る。是の諸如來は悉く金剛幢と号す。時に彼の諸佛は金剛幢菩薩に告げて言く「善哉善哉。佛子。乃ち能く是の菩薩明智三昧に入りて正受せり。善男子。十方各の百萬佛刹微塵數に等しき世界の諸佛は汝に神力を加へたまふが . . . 本文を読む
靖国神社社頭掲示より「遺言書 陸軍伍長 宮井倞一命昭和二十年九月二十四日中国牡丹省にて戦死 大阪府岸和田市出身 二十四歳皇国の為に死すとも軍人の本懐なり。我行かん 靖国社頭の若桜七生報国 敵の為に死するとも再度生まれて敵を倒さん。遺言とても自分には心残りは無し唯御両親にこれといふ親孝行も残さず先立つ不孝をお許し下さい。生母の愛を我天に聞く昭和二十年一月十四日 陸軍一等兵 宮井倞一」 . . . 本文を読む
『高野山万灯会願文』です。「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」とあります。「つつしんで聞く、黒暗は生死の源、遍明は円寂の本なり。その元始を原たずぬればおのおの因縁あり。日燈空に擎げて唯一天の暗を除き、月鏡漢に懸けて誰か三千の明をなさん(月が出ても三千世界を照らすことは出来ない)。大日遍く法界を照らし、 智鏡高く霊台に鑑みるがごときに至っては、内外の障りことごとく除いて、自他の光普く挙 . . . 本文を読む
塵添壒囊抄には『経には「昼夜が斉しく、それは両岸に比するがごとく左右均等なり、よって、「此岸」と名付け、また日の出と日の入りの両岸は、彼の岸と此の岸と彼の岸と斉しい故に「彼岸」とも書く。時分が相応する故に、所作は成就するという。他の時にはこの意義はない。仏法は正しいことを用とし、魔界は違うことを用とする。故に正直の時節に仏法は顕現し、魔界は隠没する。これにより一年の中に二つの季の彼岸を仏法相応の時 . . . 本文を読む
「国民の祝日に関する法律」では「第2条「国民の祝日」を次のように定める。・・春分の日、 自然をたたえ、生物をいつくしむ。 ・・秋分の日、 祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。 」としています。秋分の日はお彼岸の中日でもあります。「彼岸」とは サンスクリット語pāramitāパーラミターの訳で、正しくは「到彼岸」即ち生死輪廻の此岸を離れて涅槃常楽の彼岸に到達するという意味です。原語「パーラミター . . . 本文を読む
彼岸中日の逆修五來重「宗教歳時記」に彼岸中日の記事があります。「「鳶の輪の下に鉦打つ 彼岸かな」(大江丸 「俳懺悔」)の風情がなくなったのは彼岸会の七日間鉦打つことを怠った僧侶の怠慢のせいであろう。だいたい春分秋分の前後の七日間を彼岸と思って「彼岸の入り」や「中日」や「彼岸の果て」を節日とするのも彼岸会が七日間だったからである。この七日間大阪の四天王寺には大念仏会があって西門念仏とも呼ばれことは有 . . . 本文を読む
文亀元年九月二十三日(1501) 「先帝・後土御門天皇の奉為に阿弥陀経を書写あらせられ、是日、三条西実隆をして校合せしめらる」(実隆公記)天皇は後柏原天皇。室町幕府は足利義澄。先帝後土御門天皇は、この前年の明応九年1500九月二十八日薨去されています。応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた時代だった。後柏原天皇は応仁の乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。仏教に帰 . . . 本文を読む
今日は安祥寺僧都恵雲遷化の日です。以下密教辞典等に依ります。恵運は10才で出家。東大寺で得度、戒壇院で具足戒を受ける。のち東寺の実恵の門に入り両部大法を受法、承和9年842、入唐。青龍寺義真より伝法灌頂を受け承和14年帰国。多くの経論・儀軌・仏像・法具を請来。その中の五大虚空蔵尊は東寺観智院に現存(わたしもいつも拝んでいます。)嘉祥元年(848)仁明天皇の皇后藤原順子の発願により山階安祥寺を創建。 . . . 本文を読む
今日は中秋の名月です。
以下五來重「宗教歳時記」から関連部分を抜き書きしておきます。「・・名月を賞することは花鳥風月を愛する日本人にふさわしいことだし、ことに雪月花は自然美を代表するものである。・・白楽天の「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」(「八月十五日夜 禁中に独り直し月に対して元九を憶ふ・白居易」 「銀台金闕 夕に沈沈たり。独り宿し相ひ思ひて翰林に在り。三五夜中 新月の色。二千 . . . 本文を読む
今日は獺祭忌です。正岡子規が没した日です。子規は1902年〈明治35年〉 9月19日)に34歳で没しています。子規に清沢満之が手紙を出していました。正岡子規「病床六尺」より「・・四十二○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本郷の某氏(注、清沢満之のこと)より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。『拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずる所あり左の数言を呈し候第一、かかる場合に . . . 本文を読む