釈雲照律師 訓訳原人論
宗密禅師の略伝
降誕は佛滅後千七百二十七年支那國唐朝第九代皇帝の大歴十四年、果州の西に生れ給ふ。
出家、幼より儒道を修学して業成り、将に貢挙に赴かんとして、偶々遂州の大雲寺の道圓禅師に会遇し、其禅法を味へ遂に剃髪せらる。則ち十二代憲宗皇帝の元和二年、禅師廿九歳の時也。
求法。其後圓覚經を繙き未だ軸を終らずして大に感悟し、尋で清涼國師の華厳疏を覧て一言の下に開通 . . . 本文を読む
以前人生を深く考えさせられる番組を見ました。
・一つ目は、「NHK・街録・人生のピンチ」という番組で「夫に39歳で先立たれ、女手一つで育てた息子にも大学卒業直前に交通事故で先立たれた女性。直後、勤めていた生花店も倒産、その後は廃棄物運送会社に就職して今79歳。二人を供養するために頑張っている。」というもの。
・二つ目は民放の「自閉症の子が小学五年の時、母親は癌で死去、その後父親が男手一つで育て . . . 本文を読む
「本朝皇胤紹運録」(第六十七代三条天皇)「寛仁元年(1017)四月二十九日出家、法名金剛浄。
道長との確執があり譲位をせまられたとされる。その際に詠んだとされる歌が小倉百人一首にあり。
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 三条院
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今日は昭和の日です。昭和天皇は仏教にも深くお心を寄せられていました。明治以降天皇陛下は仏教に遠ざかっておられるかと思うとそうではありませんでした。昭和天皇は佛歌もおつくりになり、満濃池まで行幸されていました。 昭和天皇御製佛歌というのがありました。 満濃池には昭和天皇の行幸碑がありました。こんな辺鄙なところにまで昭和天皇は行幸されていたのです。お大師様へのご信仰がなければ思いつくような場所ではあり . . . 本文を読む
文永五年4月29日は定済が宮中で一字金輪法を修した日です。文永三年には蒙古国書が届いており宮中も自ら国難を祈ったのでしょう。定済は鎌倉時代の真言僧。醍醐寺座主・東大寺別当・東寺長者。弘安四年正月十九日には勅命を受けて伊勢神宮に参り、蒙古降伏を祈祷しています。一字金輪法は息災法ですが最深秘の法として往古修法出来るのは東寺長者に限られていました。(密教大辞典等)
「本朝高僧傳・城州醍醐寺沙門定濟傳
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八正道について「八正道(正見、正思惟、正語、正業、 正命、正精進、正念、正定)の中で第一から第七まで(正見、正思惟、正語、正業、 正命、正精進、正念)が第八の沈思瞑想(三昧、正定)のための補助手段であり、予備段階に過ぎない。それではこの三昧(正定)そのものが何にとって予備段階になっているのか。増支部経典第四巻では正定の後に正しい認識(正智)とそのあとに正しい解脱をのべている。修行の目的は解脱であり . . . 本文を読む
・日本紀略・正歴五年四月「廿八日己酉 御読経始 依疾疫也」
・本朝世紀・正暦五年994 四月二十八日「今日臨時御読経始の日也、疫癘の未だ猶ほ止ざるに依り卅口の僧を以て、清涼殿において五十カ日修せらる也」
天皇は一条天皇。疱瘡が治まらず正歴六年には長徳に改元しています。道長もこの天然痘のおかげでライバルがすべて病死して出世しています。 . . . 本文を読む
.永享五年(1433)四月廿八日条「廿八日(中略)幕府 醍醐寺三宝院ヲシテ 天変地妖ヲ祈禳セシム」(満済准后日記)
天皇は後花園天皇。室町幕府は足利義教。永享五年七月には永享の山門騒乱が起こっています。
永享騒乱は、永享五(一四三三)年から七(一四三五)年にかけて、将軍義教と山門使節との対立から、義教が使節を殺害. し、抗議した使節らが自害し根本中堂を焼いたという事件。 . . . 本文を読む
「御即位灌頂 冨田斆純」に「後奈良天皇(貧しくて第105代天皇践祚後10年して即位式)がおこなわれ法性寺座主大僧正光什により享禄三年(1530)四月二十八日に即位灌頂を授かりたまへしときの記録によればまず、灌頂を受ける予備の修行(前行といいます)として同月22日より28日に至る一週間、毎日、十一面観音に観音経一巻、大神宮に心経一巻、春日大明神に唯識三十頌一遍、を読誦あそばしたのである。十一面観音は . . . 本文を読む
今日は道綽遷化の日です。道綽は貞観19年(645年)4月27日、85歳にて逝去しています。道綽禅師(五六二‐六四五)は、北周武帝の破仏をくぐりぬけ 「浄土五祖」の第二祖、 浄土真宗では七高僧の第四祖とされています。正信偈では「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。」としています。 . . . 本文を読む
文應元年1260四月二十七日、亀山天皇即位に際し、御代始三壇法を宮中で修しています。続史愚抄に「(亀山天皇)代始三壇法を始行さる。如意輪法阿闍梨天台座主無品尊助法親王青蓮院、不動法無品仁助法親王円満院、延命法僧正房圓・・」御代始三壇法については、「天皇の即位後、神事では大嘗会を行うのに対し、仏 事では御代始三壇法と称される御法が修される。御代始三壇 法は近世に至るまで連綿と行われてきた・・御代始三 . . . 本文を読む
今日二十六日は重源が伊勢神宮で大般若経六百巻を転読した日です。文治二年(一一八六)四月二十六日、重源は東大寺再興を祈願して伊勢神宮に大般若経六百巻を書写・転読(「東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記」)東大寺ホームページには「治承四年(1180)に、平 重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失した。しかし翌年には、大勧進に任命された俊乗房重源によって復興事業が着手され、鎌倉幕府、特に源頼朝の全面協力 . . . 本文を読む