長者補任
「(天長六年(829))大僧都空海 十一月五日大安寺別当に補す。今年、和気真綱、同清麻呂、神願寺を以て大師に付嘱し奉る。神護寺是也」
大安寺は元興寺と並んで日本における三論宗の二大拠点を成した。入唐僧道慈は、護国経典として重視された新訳『金光明最勝王経』を日本にもたらし大安寺の整備に尽力。鑑真招請の普照と栄叡、大師の師の勤操、また最澄の師にあたる行 . . . 本文を読む
秘蔵宝鑰「一佛の名号を称して無量の重罪を消し、一字の真言を讃して無辺の功徳を得る。・・経法のあるところは諸仏護念し、諸天守衛す、かくのごとくの利益あげて計うべからず((条件の整っている者は)一体の仏の名をおとなえしても重罪が消え、数あるご真言の一句でもとなえれば無辺の功徳を得る。・・仏の教えを大切にしているところは諸仏が守り諸天が護衛して下さる。密教ではこのような霊験は数えきれない。) . . . 本文を読む
今日は伝教大師から弟子の泰範にあて弘法大師の灌頂に入壇すること等を書いた手紙を出されています。実際この年の十二月十四日には大師は高雄山寺において胎蔵結縁灌頂を開かれ約束どおりに最澄・賢栄・泰範等が入壇されています。
「比叡山老僧㝡澄敬白
應に灌頂を受法する事
右㝡澄去月二十七日(弘仁三年十月二十七日)頭陀の次を以て乙訓寺に宿し空海阿闍梨に頂謁す。教誨慇懃具に三 . . . 本文を読む
「それ釈教は浩汗にして際なく涯なし、一言にしてこれを蔽えばただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり、苦空の因を救うは利他なり。空しく常楽を願うも得ず、徒に抜苦を計れどもまた難し、必ずまさに福智(注1)兼ねて修し、定慧(注2)並べ行じて、いましよく他の苦を救い、自の楽を取るべし。(御請来目録)」(自他を救うためには、仏教の教理を学び、六波羅蜜特に布施行を実践し、禅定と智慧を磨かなければならない). . . . 本文を読む
「国家の奉為に修法せんと請ふ表」(性霊集第四)「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐して遠く海西に遊ぶ。儻灌頂の道場に入て、一百余部の金剛乗の法門を授けらるること得たり。其経は佛の心肝、國の霊宝なり。是の故に大唐開元よりこの己来、一人三公、親り灌頂を授けられて、誦持観念す。近くは四海を安むじ、遠くは菩提を求む。宮中に長生殿を捨て内道場とす。復七日毎に解念誦の僧等をして持念修行せしむ。城中城外に鎮國 . . . 本文を読む
大師が任王会を開かれんとされた表です。「国家の奉為に修法せんと請ふ表」(性霊集第四)「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐して遠く海西に遊ぶ。儻灌頂の道場に入て、一百余部の金剛乗の法門を授けらるること得たり。其経は佛の心肝、國の霊宝なり。是の故に大唐開元よりこの己来、一人三公、親り灌頂を授けられて、誦持観念す。近くは四海を安むじ、遠くは菩提を求む。宮中に長生殿を捨て内道場とす。復七日毎に解念誦の僧 . . . 本文を読む
・「平家物語・高野槇」「瓦に松生ひ垣に苔生むして、星霜久しく思えたり。昔延喜の帝の御時、御夢想の御告げあつて、檜皮色の御衣を参させ給ふに、勅使中納言資澄卿、般若寺の僧正観賢を相具して、この御山に上り、御廟の扉を押し開き、御衣を着せ奉らんとしけるに、霧厚う隔たつて、大師拝させ給はず。ときに観賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出でて、師匠の室に入つしよりこの方、いまだ禁戒を犯ぜず、さればなどか拝み奉らざ . . . 本文を読む
今日弘仁元年810十月二十七日はお大師様(三十七歳)が「国家の奉為に修法せんと請ふ表」を上表された日です。この文の中に在る通り、のち12月1日より勅許を得て高尾山で修法が始まっています。お大師様は「国家の奉為に修法せんと請ふ表」で、佛の教えにより、「国」、「家庭」、「自他」を同時に救う道があると喝破されています。「国家の奉為に修法せんと請ふ表」(性霊集第四)「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐し . . . 本文を読む
今日は御廟を開扉して大師号を読み上げ御衣をお着せ申し上げた日
高野春秋(延喜二十一年921十月)「二十七日、勅使及び観賢座主奥院に詣ず。・・勅使及僧都唐櫃を昇持せしめ御拝殿に著く。観賢僧都座より起ち欽びて廟扉を排し勅衣を備奉る。扶閑宣命を読み上ぐ『勅す。琴絃旣に絕へ、遺音更に淸し。蘭叢(らんそう)凋むと雖も、餘香猶ほ播しく。故贈大僧正法印大和尙位空海、煩惱を鎖弃(しょうき)し、驕貪を抛却して、三 . . . 本文を読む
「桓武天皇の奉為に太上御書の金字の法華を講ずる達親」(大師)
(先帝供養の法華講により先皇・桓武は成仏し、ひいては生類すべてにその功徳は及ぶとされています。)
沙門空海聞く、栗駄の蓮理(かりだ心)は湿凝(因果)を筌魚(経典)に貸り、大我の広神(佛の広大な知恵)は虚金を指兔に仮る(明智によって妄念を止めるべく経典を示された)。ここに爪章(長爪梵志の断見論)髪論(黄髪外道の論書)は . . . 本文を読む
・今日天長元年10月22日は大師が「笠の大夫、先妣の奉為に大曼荼羅を造り奉る願文」を書かれた日です。「弟子従五位上行左衛門の権の佐笠の朝臣仲守、金剛界蓮華部の四種曼荼羅に帰命し奉る。李桑が言籍はなお二辺の泥に滞り(老子は無の一辺に、孔子は有の一辺に滞っている)、勝数が典文はなお三有の水に溺る(勝論と数論はなお三界の迷いの世界である)。小家は小感し、大演は大時なり(小乗は自利のみで小涅槃のみ、大乗は . . . 本文を読む
高野春秋に
(延喜二十一年 922十月)「二十一日、勅。檜皮色法衣一襲、贈大僧正空海入定の庿所に贈賜せんと欲す、之を製裁せよ。天皇今暁霊夢叡感ある故也。御夢は大僧正来現して云く、帝我がために檜皮色御装束一襲を裁製し野山入定の庿所に贈賜せよ云々」とあります。
このとき大師は「高野山結ぶ庵に袖朽ちて こけの下にぞ 有明の月」と詠まれたとされ弘法大師御詠歌第二番となっています。
此 . . . 本文を読む
類聚国史に「淳和天皇弘仁十四年823十月癸巳十三日、皇后院に於いて大僧都空海法師に息災の法を行わせしむ。三日三夜なり。」
淳和天皇后・正子内親王は、第52代嵯峨天皇の皇女で弘仁14年(823年)頃、叔父の淳和天皇に入内し3人の皇子を産まれました。大師が息災の法を修せられたのはこの頃と思われます。 . . . 本文を読む
・今日弘仁12年(大師48歳)9月7日は大師が「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造る願文」を書かれた日です。御大師様は曼荼羅諸尊を画く行為は国家を擁護し衆生を覚らせる功徳があるとされています。われわれの写仏もこの数万分の一位の功徳はあるということです。「弟子苾芻空海両部の曼荼羅に帰命し奉る。それ金剛の四法身(自性・受用・変化・等流)、胎蔵の三秘印(字・印・形相)は空性に憩って軷祖(ばっそ・出発にあたり . . . 本文を読む
今日30日は大師が「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造する願文」を書かれた日です。「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造する願文」奉為四恩造二部大曼荼羅弟子苾蒭空海両部曼荼羅に帰命し奉るそれ金剛の四法身(自性・受用・変化・等流法身)、胎蔵の三秘印(法・三昧耶・大曼荼羅)は空性に憩って軷祖(ばっそ・発心)し、重如(真如)に秣って以て脂轄(しかつ・車に油指す)す。一道無為は初入の門(天台は密教の入門)三自本覚は . . . 本文を読む