祈願して目が明いた話二話
1,「古今著聞集」「盲人熊野社に祈請して開眼の事」(三年も祈願した盲人がお陰がないので熊野権現をうらんでいるとお陰を受け懺悔する話です。)
「熊野に盲のもの斎燈をたきて眼のあきらかならん事を祈るありけり。此勤三年に成りけれども、しるしなかりければ、権現を恨みまゐらせて打ふしたる夢に、『汝が恨むる所、そのいはれなきにあらねども、先世の報をしるべき也。汝は . . . 本文を読む
お地蔵様の霊験の実例と根拠1、お地蔵様の現世利益を説く経典地蔵菩薩本願経囑累人天品第十三にはお地蔵様を見、讀誦・香華・飮食・衣服・珍寶・布施・供養・讃歎・瞻禮すればの28種の功徳を得ると説かれています。「若未來世有善男子善女人。見地藏形像及聞此經。乃至讀誦香華飮食衣服珍寶布施供養讃歎瞻禮。得二十八種利益。一者天龍護念、二者善果日増、三者集聖上因、四者菩提不退、五者衣食豊足、六者疾疫不臨、七者離 . . . 本文を読む
父の夢枕にお大師様が・・・(O.M、広島県双三郡、明治38年)
わたしは子供のころ大正11年12月から肋膜炎にかかり医師はみな此の子の病気は良くならないと匙をなげてしまいました。そんなある朝父の夢枕にお大師様が現れ、「子供の病気は医者では治らぬ。お前の好きなものを願立てに絶ちなさい」とおっしゃったそうです。其の夢つげから父は大好きな煙草をぷっつりとやめました。そしてお . . . 本文を読む
・今日1月19日は嵯峨帝より大師に東寺が下賜された日です。高野大師御広伝に「弘仁十四年正月十九日、東寺を以て永く大師に給う。勅使藤原朝臣良房、請来法文曼荼羅道具等、幷に公家奉書一切経論等、大経蔵に納める。その後、(嵯峨)天皇大師を主として灌頂を受ける・・」とあります。大師の御遺告には「・・但し、弘仁の帝皇、給ふに東寺を以てす。歓喜に勝えず、秘密の道場と成せり。努力努力他人をして雑住せしむることなか . . . 本文を読む
良寛和尚は宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕、神官で庄屋の父のもと出雲崎でご出生、天保2年1月6日〔1831年2月18日〕74歳で遷化されています。真言宗や浄土宗、日蓮宗、神道にも通じておられたといいます。良寛様の書の線は「見えないものを書いた線である」と言われたことがあります。ああいう線は書けるものではないということでしょう。私は良寛様が修行された岡山の圓通寺近くに親戚もあり、また新潟に . . . 本文を読む
延暦二十三年十二月二十三日(西暦803、大師御年32歳)は大師が長安に御到着になった日です。大師は五月十二日に日本を出発され八月十日に赤岸鎮に漂着され、十月三日に藤原葛野麻呂に代わり福州の観察使宛の公文書を上表されて以来実に数か月ぶりに入京できたことになります。日本を出発されて以来だと半年以上かかっての入京です。高野大師御広伝には「十二月二十三日。至上都長安城。唐貞元廿年也。入京華之儀。不可説盡。 . . . 本文を読む
以前湯島界隈で新渡戸稲造の湯島天神祈願の掲示板に出会いました。文京区作成の旧湯島三組町の町名紹介掲示板でそこには「新渡戸は、数えの9歳で叔父の養子となり上京、翌年旧南部藩の脇慣義塾(三組町105番地)に寄宿した。近くの湯島天神に兄の病気の全快を祈って水垢離をとった。けなげな稲造を見て神官が声を掛け、説教会に呼んだ。『自分自身が光明で自分の信ずる道を進め』という教えは、一生の指針となった。」とありま . . . 本文を読む
ここ数年「年ごとに吾苦しみは深くして・・」という気持ちにもさせられることもありました。しかし以前私淑するA師に「あなたの祈願はお大師様にとどいてない。お蔭を頂くには声を振り絞るようにして必死に最低千遍はお唱えしなければならない・・」と言われたことを思い出してここ数日小声ではありますが声を振り絞って拝み、同時にその前後では額突いて拝んでもいました。するとまことにありがたいことに長年の懸案事項が薄紙を . . . 本文を読む
観音様の御真言は「功徳空しからず」
(「おんあろりきゃそわか」と観音様の御真言を唱えると)假饒(たとひ)妄念の中に唱ふるとも、既に我真言を誦すと思ふて誦するが故に早佛の境界に一歩踏み入るる理あり。此の義有るが故に一分の功徳を得るなり。復次に其の心は如何様なるにもあれ、口に唱ふる真言に無量の功徳を具するが故に、一念なりとも信を起こして唱ふるには其の功徳空しからず。現生には利益なくとも當世には必ず薫 . . . 本文を読む
写経勧進をしていた薬師寺の安田暎胤師は大法輪昭和52年7月号に写経のご利益を大要次のように書いています。「桑名の貝新の水谷新之助会長は1000巻の写経をした後お薬師様の霊夢をみて病気回復した。このほか失明の宣告をうけ自殺寸前に助けられた、20年来の神経痛が治った、不妊宣告にもかかわらず元気な男児をもうけた、などと無数の礼状が薬師寺にくる。」 . . . 本文を読む
「(日本霊異記)卅四、怨病忽ち身に嬰かかり、之に因りて受戒行善して以って現に病を愈すことを得る緣」
「巨勢呰女(こせのあさめ)者,紀伊國名草郡埴生里之女也。以天平寶字五年761辛丑、怨病身に嬰(かか)り,頸に癭肉疽を生じ、大苽の如し。痛苦切るが如くにして歷年不愈。自ら謂へらく、「宿業の招く所ならむ,但だ現報にみには非じ、滅罪し病を差(いや)すよりは,善を行はむには如かじ。」と。剃髮受戒し袈裟を著 . . . 本文を読む
「日本書紀・天武九年680十一月」「丁酉(26日)、天皇、病したまふ。因以て百僧を度せしむ。俄に癒へたまふ。」
丁度、11月12日には皇后不豫で薬師寺の建立を始め皇后が平癒されたばかりでした。この薬師寺建立と百僧度と相まって天皇の不豫は俄かに癒えたのかもしれません。 . . . 本文を読む
「日本巡礼記集成」の中にn尼の手記というのがあります。
これによると昭和55年5月、45番岩屋寺奥の院で小児麻痺により20年間動かなかった女性の手が行場へ登ろうとして鎖に手をかけた途端に動くようになったということです。其処の所を抜粋しておきます。「昭和55年5月12日、四国88所巡拝に、美代ちゃん(19歳の女性。小児まひで左腕が上がらず左足も不自由)が、お母さんと参加され3日目に45番岩屋寺に着 . . . 本文を読む
今日は河内金剛寺中興の祖、阿観の示寂された日です。以下「密教辞典」等による。阿観は承元1.11.14(1207.12.4)に示寂しています。平安後期の真言宗の僧。和泉国(大阪府)大鳥郡の大和貞平の子。幼いときから高野山に登り密教を学ぶが,明神の夢告を受けたことから河内天野山に入り後白河法皇の勅を奉じて廃寺を再興、河内天野山金剛寺と号す。,治承2(1178)年には金堂を建立,養和1(1181)年には . . . 本文を読む
「「日本書紀・天武九年680十一月」「癸未(12日)皇后不豫。則ち皇后の為に誓願して初めて薬師寺を興つ。仍りて百僧を度したまふ。是に由りて安平なることを得たり。是の日罪を赦したまふ。」
天武天皇の皇后は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・天智天皇皇女で後の持統天皇)
お薬師様の効験あらたかであったということです。 - . . . 本文を読む