三代実録 / 元慶二年四月卅日乙未条(878)に「卅日乙未 先是 災旱殊に甚し 農夫耒を棄て 朝廷憂を為す 是日膏雨快澍 溝渠皆な溢る 天下以って 仁王経之験力と為す 故に是を記す」(天皇は陽成天皇。前年以来の干魃により飢饉が起きていました。) . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔30/33
西國二十九番丹州松尾寺馬頭観音
釈して云く、馬頭観音とは形像は四面忿怒の御相好、虎牙上下に出現して八臂なり。各々器杖を執り寶を盤石の上の蓮華臺の上に安坐し玉ふ。中面の上は碧馬の頭をいただき、髪は螺焔のごとくにして身の色赫奕たること日輪のごとく邊身火の燃ること劫災に逾ることは内外人天の業障を梵焼することなり。或は二臂あり。不空羂索經第九馬頭一巻の軌、五佛頂經の一及び小 . . . 本文を読む
百練抄・正元元年(1259)四月三十日条に「三十日 仁王経法ヲ冷泉殿ニ修シテ 疫疾ヲ禳フ」とあります。此のころは、[五代帝王物語]に 「春比より世のなかに疫病おびただしくはやりて、下臈どもはやまぬ家なし。川原などは路もなきほどに死骸みちて、浅ましき事にて侍りき。崇神天皇の御代昔の例にも劣らずやありけん。飢饉もけしからぬ事にて、諸国七道の民おほく死亡せしかば、三月 二十六日改元ありて正元と改る。」と . . . 本文を読む
「・・長安城の中に於いて写し得るところの経論疏等凡て三百余軸、及び大悲胎蔵・金剛界等の大曼荼羅の尊容、力を竭くし財を涸くして趁め遂って図画せり、しかれども人は劣に教えは広うして未だ一ごうをも抜かず(九牛の一毛にも及ばず)、衣鉢竭き人を雇うこと能はず、食寝を忘れて書写に労す、日車返り難うして忽ちに発期迫れり、心の憂い誰に向かってか紛を解かん。空海偶々崑嶽に登って未だ懐に満ことを得ず、天を仰いで屠裂( . . . 本文を読む
今日保元元年1156、4月29日は清盛が高野山根本大塔の再建を果たし、座主寛遍が導師となり開眼供養した日です。この後、7月には保元の乱が勃発しますが、清盛は戦功により播磨守となっています。
しかし清盛はこうして高野山に寄進したり、厳島神社を造営し平家納経を納めても子孫はあっという間に滅亡してしまいました。瞬間的には清盛自身は栄達を極めてお陰があった様に見えますがそれも一瞬の夢でした。なにか割り切 . . . 本文を読む
大同二年807、4月29日は大師が勅命により九州・観世音寺に留まられた日です。高野大師傳には「大同二年、四月二十九日。大貮従四位下 藤原藤嗣朝臣、牒を観世音寺三綱に送府す云々。入唐廻来学問空海師、件の僧、笈を負って遠藩し大道を耽嗜し空しく往いて満ちて帰る。優学称すべし。今帰朝に及ぶ、暫く彼の寺に住す。宜しく入京の日に至るまで准借すること件のごとく住み供養せられよ。」 . . . 本文を読む
三代実録 / 元慶二年(878)四月廿九日甲午条
「廿九日甲午 一百座を設けて 仁王般若経を説く。 京師御在所より始め 聖神寺に至る迄卅二、 畿内及外国六十八。 其呪願文曰 『・・・兼て因縁を察し 千の光明を放って 七災難を銷し・・(後略)」
聖神寺は、山城国愛宕郡紫野大門辺にあった寺院。弘仁十一年(820)に賀茂男牀が神託によって造立。
天皇は陽成天皇。元慶二年(878年) . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔29/33
西國二十八番丹州成相寺千手像御身長一・・
釋して云く、千手經に云ふ大悲神呪
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を誦する者は十五種の善生を得ることを誓ひたまへり。
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今日は蝦夷の乱平定のため仁王般若経百座の説会を命じた日です。三代実録 / 元慶二年(878)四月廿九日甲午条「廿九日甲午 設一百座 説仁王般若経 京師始自御在所 至于聖神寺卅二 畿内及外国六十八 其呪願文曰 (中略) 兼察因縁(注1) 放千光明 銷七災難(注2) 」(四月二十九日、百座を設けて仁王般若経の講説を行った。京師では御在所からはじめて聖神寺に至るまで三十二箇所、畿内及び畿外では六十八箇所 . . . 本文を読む
今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され密教興隆を誓われました。国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第三通目) 一通以下「宸翰英華」等によります。今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され法流を継ぎ密教興隆を誓われましたがこの前には、憲淳が法皇に以下のような附法状を奉っています。憲淳は法皇が報恩院に住持した場合は、法皇を正嫡と . . . 本文を読む
尼僧の読み込んだ法華経が除病の霊験をあらわしたこと。今昔物語巻十二第三十話 尼願西所持法花経不焼給語 第三十「今昔、一人の尼有けり。名をば願西と云ふ。横川の源信僧都の姉也。 此の尼、本より心柔暖にして瞋恚を発さず。女の身也と云へども、心に智有て因果を知れり。出家の後は戒律を犯さずして、専に善心有り。亦、法花経を読誦して、其の義理を悟る事深し。凡そ生たる間、法花経を読奉れる事、数万部也。念仏の功を積 . . . 本文を読む
観音霊験記真鈔28/33
西國二十七番播州書寫寺如意輪像御身長一尺五寸(56.9cm)
釈して云く、如意輪と辨財天とは一躰分身の化益なり。辨財天經に云、佛大衆諸菩薩に告げて言、汝等此の神王に於いて軽慢を作す莫れ。此の神王は西方刹土に於いては無量壽佛と稱し娑婆世界に在りては如意輪観音と稱す。宇賀神三日成就經に云ふ、宇賀神将菩薩大蛇の形にて佛前に出現す。我過去に成仏す。名けて正明如来と號す。佛法擁 . . . 本文を読む
今日は疫病・旱害を防ぐために十五大寺等に大般若経の転読を命じた日天長元年(824) 四月丁未(二十八日)「 十五大寺(注3)并五畿内七道諸国をして、大般若経を奉読せしむ。疫旱を防がんが為也。」 (類聚国史)尚、天長元年は天皇は淳和天皇で、この年は大師が朝命により神泉苑で祈雨の霊験を顕わされたり(注1)、神護寺を定額寺神護国祚真言寺にすることを許されたり(注2)した年ですからこの大般若転読も大師の進 . . . 本文を読む
今日は疱瘡甚だしと記されている日
日本紀略 / 寛仁四年(1020)四月廿八日己酉条「廿八日己酉・・・今年自春患疱瘡 四月殊甚」
天皇は、後一条天皇(第68代)
此の年は疱瘡が甚だしかったことは多くの歴史書に在ります。
「春より夏に至る、皰(疱)瘡殊に甚だし(諸道勘文)」「今年疱瘡流行、天下これを煩う(百錬抄)」 . . . 本文を読む