最近祈願が数件叶えなくてかなり懐疑的になっていました。以前も書きましたが四国61番香園寺中興の祖・山岡瑞円師の本「人格的生活をめざして」(昭和8年香園寺子安遍照会発行)に、師が荒れ果てた寺で肺病に伏せっていて「仏が人を救うなどとそんなことがあるものか、こんな苦しいときにも仏様は私を救うてくれないではないか、この世に神も仏もあるものか、 お経は人を誑かす架空の妄談ではないか」と自暴自棄になったとありましたが、全くその通りの気持ちを持つときもありました。またジイドの『贋金つくり』の「神は、鼠をなぶる猫のように、わしらをからかっているのじゃ……そうして置いて、わしらにまだ感謝しろという。何に感謝するのだ?」というフレーズが頭に浮かんできたりしていました。
そうした中でも毎朝夕の修法勤行は続けていましたが、今朝ふと気が付くと突然「ああ有難いなあ」という気持ちになっていました。不平不満だらけで勤行していたのですがふと無心になり勤行していたのです。どこかで、「思わぬところでふと悟りの落とし穴に落ちることがある」いう先人の言葉を見ましたが、当方は悟りには程遠くとも「無心の穴」にポンと落ちていたのです。そうなるともう、いつもの祈願の成否などは祈れなくなります。ただただ「なんかありがたいなあ」という気持ちのみで拝み続けることが出来ました。祈願の成否などはお任せする、という気持ちになります。
やはり祈りは続けていれば必ずいいことがあります。ガンジーは「必死のいのりは必ず叶えられる」と喝破していました。
いつもありがたく学ばせて頂いています😊
本当に感謝してます❤️