・「簡単すぎる人生に,生きる価値など無い。」 ソクラテス
・「世界は苦しいことでいっぱいだけれどもそれに打ち勝つことでもあふれている。」 ヘレンケラー
・「どうしてみんなあんなに、他人と同じことをやりたがるのだろう。自分は自分である。何億の人間がいても自分は自分である。そこに自分の自信があり、誇りがある。そしてこんな人こそが、社会の繁栄のために本当に必要なのである。」松下幸之助
・「・・日の . . . 本文を読む
今日は延命院僧都元杲遷化の日
元杲(げんごう)は 長徳元年995二月二十七日81歳で遷化。藤原京家の出身で、父は雅楽助藤原晨省。房号は真言房。とも称される。淳祐・寛空に灌頂を受け、内供奉十禅師・東宮護持僧。小野・広沢両流を受け、祈雨法を修して霊験。 . . . 本文を読む
「高野春秋」に「長徳元年995二月二十七日、大僧都元杲、現身に西方世界に往詣す(寿八十二)。日課誦経専念の酬の故なり。長者牒に云、永延二年元杲、所職を辞退し永く以て醍醐延命院に籠居し西方極楽界を念ず。彼の遺誡に云、閑居本意他念無し。法花経を読み奉り之を以て日作と為す。弥陀佛を念じ奉り之を以て夜勤と為す。入滅の後、弟子等若し滴ま拝賀を致さんと欲せば當に西方にむかひて極楽を拝し奉るべし . . . 本文を読む
今日天長五年二月二十七日は大師が「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」をお作りになった日です。((日本後記・天長五年二月に)「甲寅,賜鎮東按察使-伴朝臣-國道餞.有御製.賜衣被及雜珍玩物」とあり。)「伴按察平章事が陸府に赴くに贈る詩」夫れ膚寸(雲)南北に心なけれども風に遭ふときは則ち飛ぶ。順の徳なり(命令にしたがう徳)。人臣東西に心なけれども命を銜ふくむときは則ち馳す。忠の至りなり。蕞爾たる毛夷(さ . . . 本文を読む
「いかにも人の為、世の為よからむとおもひ給ふべし。行く末の為と申す也。白き鳥の子はその色白し。黒きはその子も黒し。蓼といふ草、からくしてその末をつぐなり。あまき物の種は劣ふれども、その味甘し。されば人の為よからむとおもはば、末の世、かならずよかるべし。我が身をおもふばかりにあらず。(どんなことをしていても人の為、世の為と努力せよ。それは将来の為になる。蓼は生え変わっても辛い。甘いものの種はいくら衰 . . . 本文を読む
柳田国男「七生報国」(『先祖の話』より。「先祖の話」は空襲で無数の日本人が犠牲になって居た最中の昭和20年4月から5月の終戦直前に書かれています。)
それは是から更に確かめて見なければ、さうとも否とも言へないことであらうが、少なくとも人があの世をさう遥かなる国とも考へず、一念の力によつてあまたゝび、此世と交通することが出来るのみか、更に改めて復立帰り、次次の人生を営むことも不能では無ひと . . . 本文を読む
今日永治2年2月26日は絶世の美女・待賢門院璋子が42歳でわが子・仁和寺覚性法親王の下で落飾し真如法尼となった日です。崇徳天皇や後白河天皇も産んでいます。璋子は西行法師の出家の原因ともいわれ絶世の美女ぶりのみが騒がれますが当時の人は晩節を全うするこういう隠世の仕方があったのです。現代の日本人が軽薄に見えるのもこういう故事が失われて行っているからでしょう。ちなみに覚性法親王は仁和寺門跡等おおくの名刹 . . . 本文を読む
般若心経の霊験
・お大師様の「般若心経秘鍵」には「(般若心経を)誦持講供すれば則ち苦を抜き楽を与え、修習思惟すれば則ち道を得、通を起こす。」とあります。(般若心経を読誦すれば抜苦与楽し、意味を考えれば覚りを得、真理を体得できる。即ち現世利益も覚りもともにいただけるということです。)
・訳経者の玄奘三蔵自身が印度への求法の旅の途中で悪鬼に襲われたとき般若心経を唱え . . . 本文を読む
今日2月25日は天神様の日です。1、道真公は延喜3年(903年)2月25日に59歳で大宰府で薨去されました。その後道真公を讃えるべく多くの神社ができています。日本三大天神は防府天満宮・太宰府天満宮・北野天満宮。また江戸市中で道真公を祭る25社は「江戸二十五天神(亀戸天神 、深川天神 、楓川天神、飯倉天神、茅野天神、花城天神、福吉天神、平河天神 、中坂天神、牛天神、櫻木天神、湯島天神、下谷天神、渡江 . . . 本文を読む
今日は高雄僧正・紀の僧正・柿本僧正・真済が入滅された日です。以下密教辞典等によります。真済は延暦19年(800年) -~貞観2年2月25日(860年3月25日)61歳。平安時代前期の真言宗の僧。大師十大弟子の一人。紀氏一族。大師に高雄山・宮中真言院を委嘱される。 「三代実録」では「真済、入愛当護山高尾峰、不出十二年。嵯峨天皇、聞其苦行、為内供奉十禅師。」とあり当時は真言宗でも12年籠山行が行われて . . . 本文を読む
日本三代実録・卷四・貞觀二年(860)二月廿五日に眞濟遷化の記事があります。「貞觀二年二月廿五日丙午。○廿五日丙午。僧正傳燈大法師位眞濟卒。眞濟者。俗姓紀朝臣。左京人也。祖正五位下田長。父巡察彈正正六位上御園。眞濟少年出家。學大乘道。兼通外傳。夙有識悟。從大僧都空海。受眞言教。大師海公鑑其器量。特加提誘。遂授兩部大法。爲傳法阿闍梨。眞濟時年廿五。時人奇之。眞濟入愛當護山高尾峰。不出十二年。嵯峨天皇 . . . 本文を読む