続千載和歌集・後宇多院御製に 「十住心論の開内庫授宝」として「さとりいる十の心のひらけてぞおもひのままによはすくひける」とあります。 『秘密曼荼羅 十住心論』の略本たる『秘蔵宝鑰』に「九種の心薬は外塵を払って迷いを遮し、金剛の一宮は内庫をひらいて宝を授く」(第一住心から第九住心までの顕教は迷いを否定して覚りへ向かうが密教は直接の悟りの境地を目指す。)」とあります。後宇多院は密教に深く帰依されまし . . . 本文を読む
過酷な運命に次々と晒されつつも強くいきた中村久子女史のお念仏との出会。[念仏は、助けてくれという念仏ではありません。願いを叶えてくれるという念仏でもありません。両手両足を失って痛みで苦しんでいる孫を背負いながら、どうして私だけがこのような目にあわなければならないのか、何とかしてくれという念仏でもありません。「ただ一人念仏を申すほかすべはなく、念仏を申すほかこの今の私を包んでいる世界はない」「そのままの、ありのままを念仏と共にある」という念仏であります]
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「苦難の中でこそ、神仏を真剣に求めるきっかけを掴むことができる。そしてその神仏を求める気持ちの真剣さ切実さに応じて 神仏の臨在が痛切に感じられるようになる。そして自分が神仏と共にあると心から自覚できるようになるとき、私たちは初めて本当の「安心」を得られる。そこからは自分の浅はかな計らいは不要となる。そして、神仏にお任せしようと本心から思えるようになると続々と不思議な現象が起こり、利他行に励むことが . . . 本文を読む
「高野春秋」「(貞観五年863)十二月、真如師の遺骨、羅越祇國より傳来す。是れ則ち在唐中瓘,書を寄せて送別する也。・・仍ち和州超昇寺に葬す。」
(マレーシアのジョホール・バルには、親王院が日本から御影石を運んだ高岳親王の供養塔があるようです。
超昇寺は、真如法親王が父・平城天皇が晩年住んでいた平城宮北側の楊梅宮を、835年に寺としたものです。) . . . 本文を読む
今日は平安末期の真言僧興然師の示寂された日です。以下密教辞典等によります。読み方は、こうぜん・こうねん。字・理明坊・勸修寺御坊・慈尊院阿闍梨。生年:保安2(1121)、没年:建仁3.11.30(1204.1.3)。勸修寺慈尊院二世。寛信に随って両部大法・護摩・諸尊儀儀軌等を学び、念範・実任・亮薫等から受法8回、真言系各派の密教修法を再び統合し後世に伝えるために,多くの儀軌や曼荼羅・図像を精力的に収 . . . 本文を読む
「本朝皇胤紹運録」(第九十八代・北朝三代崇光天皇)「明徳三年1392十一月晦、御落飾。法諱勝圓心」
崇光天皇・・・14世紀、北朝第三代の天皇。在位1348〜1351。光厳天皇の第1皇子。足利尊氏が南朝にくだったため廃位される。のち、南朝方に捕らえられて賀名生(あのう)に移され、さらに帰京して出家。 . . . 本文を読む
神皇正統記には「真言第一」としつつ「為政者は諸宗を捨てず庶民教化の機をつかむべし」としています。
「神皇正統記・嵯峨天皇の条」「・・・東寺は桓武遷都の初め、皇城の鎮めのためにこれを建てらる。弘仁の御時、弘法に給ひてながく真言の寺とす。諸宗の雑住を許さざる地なり。
此の宗を神通乗と云ふ。如来果上の法門にして諸教に越えたる極秘密と思へり。就中我国は神代よりの縁起、この宗の所説に符合せり。(大師の作 . . . 本文を読む
昔尼僧もどきの作家が不倫を奨励するような発言をしているのがネットに出ていたことがありますがとんでもありません。十善戒は僧俗問わず基本中の基本ですしその中でも不殺生、不偸盗、不邪淫は最も重いとされています。古来「邪婬は國を亡し家を亡す」とされています。人倫のみだれは文明を滅ぼしてきたことは歴史の証明する所です。また「家運が下降をたどるという場合は必ず先祖に色情問題がでている」とされます。以下引用して . . . 本文を読む
六歳日には天皇陛下も御精進されていたこと。
「年中行事御障子文」(太政大臣藤原基経が仁和元年885に衝立障子に宮中の年中行事を列記して書き出し光孝天皇に献上したもの。内裏の清涼殿に置かれた。)に「毎六歳日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)、御精進幷殺生禁断の事。毎十八日、二間観音供事」とあります。 . . . 本文を読む
印融法印の時世の歌
高野春秋に「(永正十六年)秋は八月十五日夜、印融闍梨、武州烏山観護寺(また三會寺)に入寂。融師とは武州久保の人也。幼若に登山。事教業成。無量光院に入る。開講撓はず。議論玄に入る。筆記勝計すべからず。晩年関東に遊説。談林を興し論場を創る。平生書籍を捨てず、恒に烏山三會寺に居し時々隣里他山講義の毎に小牛に乗る。而して其の牛角に巻帙を架し行々熟覧焉。辞世歌に曰く「生まるるも阿字(梵 . . . 本文を読む
今日は親鸞聖人ご入滅の日です。「弘長2年(1262年)11月28日 、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院 」にて、享年90(満89歳)をもって入滅。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた」(ウキペヂア)とされます。東本願寺では21日から28日まで報恩講を営んでいます。不十分な知識ながら、親鸞聖人はわれわれに『業』のどうしよう . . . 本文を読む
日本紀略 / 応和二年(962)十一月廿七日辛未条
「廿七日辛未 (中略) 今日 綿調布等を以て東西京(の困窮民)に賑給す」
天皇は村上天皇。『後撰和歌集』の編纂、『清涼記』の著者とも、平安文化を開花させ「天暦の治」として後世景仰される。この「天暦の治」もこうした天皇の貧民へ賑給する等の陰徳あって花開いたといえましょう。 . . . 本文を読む
「本朝皇胤紹運録」(第九十九代後亀山天皇)「応永四年(1397)十一月二十七日尊号および兵仗を辞退、その後御出家、法名金剛心」
後亀山天皇は第九十九代・南朝第四代。南朝最後の天皇。後村上天皇(第97代天皇南朝第2代天皇)の皇子。在位1383〜1392。足利義満に応じ、神器を北朝の後小松天皇に伝えて譲位、南北朝合一。 . . . 本文を読む
三島由紀夫の檄文われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなか . . . 本文を読む