本来お正月は神仏一体の先祖祭りの日でした。古典の数々(注4、5,)柳田國男「先祖の話」(注1)、五來重「宗教歳時史」(注2)、「奈良県民俗地図」(注3)等から明らかです。注1、「先祖の話」柳田國男」(昭和21年4月)正月の十六日を以て先祖を拝むにとしている例は極めて多い。先祖正月といふのはこの日のことで先祖の墓の前に集まって酒盛りをする風がもとはあった。・・日本人の志としては、たとへ肉体は朽ちて跡 . . . 本文を読む
森寛紹猊下は、明治32年(一八九九)5月31日、温泉郡重信町(現東温市)生まれ。元高野山真言宗管長・高野山真言宗総本山金剛峯寺第406世座主。平成6年12月26日、九五歳で遷化されています。俳人としても活躍され「お遍路の誰もが持てる不仕合ふしあわせ(森)白象」の句は森寛紹(白象)の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき詠んだものとされ四十七番八坂寺に句碑がありました。 . . . 本文を読む
今日は梵語学者荻原雲来博士の遷化された日です。以下密教辞典及び「明治の仏教者」によります。生れは明治2年2月10日和歌山県田辺にて生誕。幼くして父を失い上京して浄土宗の泰斗荻原雲台の弟子となる。福田行誡に宗戒を受け浄土宗学校に学び、ドイツに留学梵語学の世界的泰斗ロイマン教授に、学び欧州に名声を轟かし帰朝、東大講師、淑徳女学校校長となり大正11年には文学博士。梵漢対訳仏教辞典・実習梵語学・印度の仏教 . . . 本文を読む
「高野春秋」「(延喜元年901)冬十二月十三日、長者益信僧正を大阿闍梨と為し、東寺灌頂院に於て空理法皇(寛平法皇)に両部密灌を授輿し奉る。是御悃望に凭る也」
(「此の時、益信僧正誠講の言に『大王諦聴、斯の秘密無上大法は南天鐵塔内において金剛薩埵大普賢如來は龍猛を得て之を傳へ、猛は龍智に授し、跋折羅戌波伽羅に附す。此の二尊は倶に中天の大王の子、戌波伽羅は幼にして寳位を脱して那伽尊者 . . . 本文を読む
「日本の基層文化は縄文文化でありそれは蝦夷と沖縄にある」
梅原猛は「甦る縄文」等で「日本の基層文化は縄文文化でありそれは蝦夷と沖縄が本家である」と喝破しています。最近では遺伝子解析でもこれが証明されてきているようです。
「科学 2022.02号」にも「アイヌ・琉球同系説 -「縄文遺伝子 × 考古学」」として「縄文人・弥生人の二重構造モデルを DNA 解析により実証すると、アイヌ人と . . . 本文を読む
宮澤トシは1922年(大正11年)11月27日24歳で逝去しています。
「永訣の朝」(宮沢賢治)
「けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
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三代実録 / 元慶五年(881)十一月廿六日庚午条
「廿六日庚午 皇太后、太上天皇の奉為に 染殿宮に於いて 周忌の御斎会を設け 諸大寺の高僧を延べて法華経を講ずること五日訖を限る。 親王公卿及び五位已上は畢く会す。 京中の貧窮者を鴨河辺に召集し 之に賑給す。」
・天皇は陽成天皇。皇太后は清和天皇后藤原高子。太上天皇は清和天皇で元慶四年に薨じています。
・昔は皇族は . . . 本文を読む
『吾妻鏡』によれば、1253年(建長5年)11月25日、建長寺の落慶供養が行われています。時頼が創建し蘭渓道隆を初代住職として招いています。
『吾妻鏡』です。「建長五年(1253)十一月小廿五日庚子。霰降る。辰尅以後小雨潅ぐ。建長寺供養也。丈六の地藏菩薩を以て中尊と爲す。又、同像千躰を安置す。相州殊に精誠を凝ら令め給ふ。去る 建長三年十一月八日 事始有りて、已に造り畢之間、今日梵 . . . 本文を読む
以下「明治の仏教者」の趣旨によります。「渡辺全愚は明治初期の最も禅僧らしい禅僧といわれた。20歳のころ美濃の国から易学を志して京にのぼる。西本願寺前で伽藍が立派すぎるとして唾棄して立ち去った。比叡山で滝行した時、観世門菩薩の霊夢をみて仏法に志した。美濃の龍福寺万寧和尚下で得度、号を全愚としする。その後久留米梅林寺羅山和尚のもとで印可、伊深の正眼寺で雪潭に参ず。美濃の佐野に栄昌院を建立、その後全生庵 . . . 本文を読む
佐伯 定胤師は昭和27年(1952年)11月23日85歳で遷化されています。法隆寺管主。大僧正。学士院会員。明治時代の廃仏毀釈で衰えていた唯識・法相の教えを再興した学僧です。 生涯肉食妻帯をしなかった方です。十歳で法隆寺管主千早定朝の弟子として得度し京都の泉涌寺で佐伯旭雅に倶舎・唯識を学んでいます。この時、旭雅、五十七歳、定胤、十八歳でした。旭雅遷化後は定胤が泉涌寺で倶舎、清水寺で唯識の「百法問答 . . . 本文を読む
以下「国民の遺言」によります。
「陸軍工兵上等兵 川口熊市命。鉄道第六連隊 昭和十二年十一月二十日支那山西省蘆家荘にて戦死。三重県阿波村出身。(以下は、この父のことを長男の川口忠信が回想した文章です)
「僕の父は僕がまだ生まれてない時、中国で戦死しました。それで父も僕の顔を見ず、僕も父の顔を写真でしか知らないのです。父がいないため、母は大変苦労をされました。学校の教員になり伊賀 . . . 本文を読む
以下「国民の遺言」によります。
「海軍中尉 辻重二の命 昭和十九年十一月十九日 比島東方海面にて戦死。
岐阜県武儀郡出身 二十三歳。」
遺詠 ・・・空に行く己が体これまでに 育てし父母に涙こぼるる・・
・・・御両親様
待望の大命を受け征途につかんとす
日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮する覚悟で居ります
弟妹によろしく
夕暗をついて帰れる編隊に 友の愛機の缼けたるさみ . . . 本文を読む
今日は慈雲尊者の弟子戒心和上薨去の日です。(以下密教辞典による)戒心は大正9年11月16日81歳で遷化しています。兵庫の人、1867年(慶応2年)慈雲尊者に戒律を学び、高貴寺9世として46年間在住。定額僧、真言宗京都大学・高野山大学で悉曇を講じた。アーネスト・サトウに梵学津梁を転写して送っています。 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・5/27
四、題の外品の内に妙法の言は之無き事
総じて廿七品には題号の外に妙法の言あれども此の品に限て一品の始終に観音の利益衆生の相ばかり説て妙法の事をば説き玉はざるなり。これはなにごとぞと云に両巻の疏にいはく、一品の中に妙法と云はざる故に観音妙法躰同といへり。恵心の云く、観音法華眼目の異名といへり。是則ち妙法なり。故に別して之を説かざるなり云々。
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