靖国神社社頭掲示より「海軍上等兵 西村英吉命(昭和十九年十一月十二日、東支那海にて戦死。大阪市出身。三十八歳。) 明子へ 父は軍人の本分を盡して護国の人柱となる。明子は父の死を知り寂しく悲しく思ふだろうが 決して心配せぬ様にして欲しい。 父は死しても魂は明子と共に毎日一緒に暮らしてゐる。明子が立派な人になる様に、病気もせず元気に学校に行ける様に神様に祈っている。父が応召に際して書き付けた訓をよく守 . . . 本文を読む
「群青」の靈告
以前義兄が85歳で死去し葬儀に参列しましたが、其の時祭壇に義兄の剣道着が飾ってありそこには「群青会」と所属がかいてありました。義兄は剣道の達人で防大・海軍と剣道にも研鑽を積んできていましたので、老後も地元の剣道会に入っていてその名だろうと思っていましたが、帰宅して何の気なしにユーチューブを開くと、いきなり谷村新司の「群青」という曲が飛び込んできました。祭壇上の剣道着の「群青」と重 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の8/8
八、如藏尼の事(此の段は殆ど元亨釈書巻十八の表現に同じ)
平将門第三の女(むすめ)を如藏尼と云けり。貌ち甚だ美色なり。されば諸家より嫁せんことを求むれどもつひにをもむくこともなし。将門叛逆して誅伐せらるるに至りて走りて奥州に到り身を隠す。元より世間の情薄かりければ恵日寺の傍に菴をむすびて独居り。一日病を受けて気絶し炎王宮に至る。庭上を見 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の7/8
七、藏縁法師地蔵を信じ神通を得る事 元亨釈書に載せる所
藏縁法師は神融法師の徒なり。形短くして甚だ醜き性質なりしが常にしずかに歩行国人歩りても及ぶことあたはず。専ら地蔵の名號を唱へて他の業とては曽てなし。平生毀をも捨てず譽れをも可なりとせず、好んで施すことを行ず。年八十に至りて皃(かたち)四十ばかりの如し。神通の感響の應ずる如く、鬼を縛り神を降す。白山 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の6/8
六、 西林寺 世に尨毛(むくげ)の地蔵と云ふ
羽休山西林寺飛行院尨毛堂(上京区上御霊前通室町西入玄蕃町46西林寺)の地蔵尊は愛宕山勝軍地蔵と一躰分身なり。當寺の開基彼の山と同じく慶俊僧都(奈良時代。大安寺に属し,入唐僧の道慈を師として三輪,法相,華厳などを学ぶ。華厳講師などを経て,法華寺の大鎮となる。聖武天皇の死に際 . . . 本文を読む
以下密教大辞典等に依ります。
善無畏・・真言伝持の八祖中の第五祖。637年 ~開元二十三年735十一月七日。梵名は戌婆掲羅僧詞、略して輸波迦羅(ゆばから)とも言う。善無畏は義訳。釈尊の父浄飯王の弟の甘露飯王の末裔。中インド摩伽陀(マカダ)国の国王であったが兄たちの反乱を抑えた後、仏門に入り、那蘭陀(ナーランダ)寺で達摩掬多(ダルマグプタ)に就き総持瑜伽三密の教えを授かり無量の印契 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の5/8
五、誠心院 寺町三條下る和泉式部町
花岳山東北寺誠心院小御堂(京都市中京区にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は華嶽山。本尊は阿弥陀如来。和泉式部ゆかりの寺院で、通称「和泉式部寺」)の地蔵尊は弘法大師の刻彫し玉へるなり。橘朝臣道貞へ和泉式部縁合せの本尊あんるによりて世に玉結の地蔵と号し奉るものなり。凢そ此の尊を信じ奉らば十種の福を得。其の中に衆人愛敬の一を . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の4/8
四、地蔵院 宇賀逗子
洛陽九條の宇賀逗子の地蔵院は小野篁の開基なり。延命地蔵菩薩本尊なりし、則ち是篁の真作なり。此の尊の靈験村民に尋ねて知るべし。或は福を祈りて満足し、或は病気悉除し若しくは里閭(村落)の田夫稼穡を祈求して一も利益あらずと云ふことなし。悉く記すに及ばず。(九条中札辻町53に 地蔵院があるがこの地蔵院かは不明) . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の3/8
三、寶蔵寺 世に関の地蔵と云ふ
伊勢國鈴鹿郡九関山寶蔵寺(現在は鈴鹿郡関町新所にある地蔵院がこれ)は草創誰人と云こと審かならず。古老傳て云へらく、叡山伝教大師の門徒大同元年(806年)に建立する所なりと。すなはち大師を請じ奉りて結願供養をなす。此の地は則ち東国往来の駅路なり。本願の心を推測に廣く衆人に結縁して信を起こさしめ、或は戯言なりとも地蔵の名号を . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の2/8
二、更雀寺 世に雀の森と云。開基幷に地蔵の靈験
森豊山更雀寺(しんぽうざんきょうしゃくじ。現在は京都市左京区静市市原町にある)の権與を訪ぬるに人王五十代の帝桓武天皇の御宇延暦年中(782年から806年)に至りて山城國長岡より此の平安城に都を遷給ひて大内裏を造営したまふ、是則ち唐の秦の始皇帝の咸陽宮の一殿を模して作られたれば、南北三十六町(4㎞)、東西二 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 14/14巻の1/8
地蔵菩薩三国霊験記巻十四目録
一、壬生寺 開基幷に地蔵尊の靈験
二、更雀寺 世に雀の森と云。開基幷に地蔵の靈験
三、寶蔵寺 世に関の地蔵と云ふ
四、地蔵院 宇賀逗子
五、誠心院 寺町三條下る和泉式部町
六、西林寺 世に尨毛(むくげ)の地蔵と云ふ
七、藏縁法師地蔵を信じ神通を得る事 元亨釈書に載せる所
八、如藏尼の事
地蔵 . . . 本文を読む
文永の役で亀山上皇は連日祈祷を行い、幕府は山陰道も固めています。
史料綜覧 巻五 / 文永十一年(1274)十一月三日条
「三日 蒙古ノ事ニ依リテ 亀山上皇御所ニ於テ 御卜ヲ行フ」
史料綜覧 巻五 / 文永十一年(1274)十一月三日 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の9/9
九、満米法師の事
満米法師(平安時代前期の僧。大和(奈良県)真言宗金剛山寺(矢田寺)の上人。「矢田地蔵縁起」によれば,閻魔(えんま)王と地獄をめぐった際,罪人を救済する地蔵にあい,この世にもどって地蔵菩薩立像(国重文)をきざんだという。前名は満慶)和州金剛山に居て戒行の誉朝野にかくれなかりき。其の時の名臣小野篁と師弟の禮をなせり。この篁 . . . 本文を読む
密教辞典によれば、親厳僧正(越後大僧正・随心院大僧正・唐橋大僧正)は1151年仁平元年より1236年嘉禎二年十一月二日。八十六歳。京都の人。唐橋中納言親光の息。法住寺で顕厳から伝法灌頂を受け瑜伽を修し法験にすぐれ、神泉苑に祈雨すること数度、また天変の御祈・中宮御産にも修法した。隋心院初代門跡、大僧正、東大寺別当。門下に厳海、俊厳、宣厳、親杲。)また『東宝記』によれば、東寺御影堂の御本尊弘法大師像〈 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 13/14巻の8/9
八、清水寺、将軍地蔵の事
延鎮法師(平安前期の法相宗の僧で京都清水寺の開祖。一説に弘仁12(821)年没。報恩の高弟で師の没後,子島寺を継いだ。宝亀9(778)年京都の乙輪(音羽)山に移り,延暦17(798)年坂上田村麻呂がその地に開いた清水寺の開祖となった)は報恩法師(七一八頃〜七九五)は、吉野山を中心に五十年近く山林修行。特に観音の陀羅尼を持誦し、 . . . 本文を読む