(世界を救うものは、大悲と大智である)事事無礙の応用といふべきものを申し上げて結論とします。人間の集団生活はまた法界の相を呈しております。集団の構成単位は個多の事事に相応するものです。この中の一個事に何らかの変化が生ずればそれは必ず余他の事事に影響を及ぼすに決まっています。人間の集団はそれほどに緊密な聯関のうえに立っているものです。大海に一つの波が動けば如何に微小のものでも全体に及ぶのです。・・国 . . . 本文を読む
良忠上人(鎌倉時代、浄土宗第三祖)著『看病用心鈔』 より(NHK心の時間の記録より)
『看病用心鈔』「序」
往生浄土への導き手である善知識(僧侶)と病人を看護する人に申します。極楽浄土へ往生することは人生の一大事です(死ぬことは人生最後の大仕事です)。もし、善知識の慈悲の心による勧め導きの力に預からなければ、この一大事は成就することができないのです。それゆえに、病人は善知識に対して仏の思いを抱 . . . 本文を読む
日本の仏教では禅は大智の面、浄土教は大悲の面を代表するといってよからうと思います。浄土系信者の一類型と見るべきものに,讃岐の庄松がある。或る時庄松は近村の男とお寺へ参詣したとき、庄松は本堂へ這入ると直ぐ、本尊阿弥陀様の前で横に寝てしまった。友人はそれをみて『如何にも不作法ではないか』と咎めたところ、庄松は『親の内へ帰ったのだ、何の遠慮にも及ばないではないか』といったという。・・庄松が京都の本山へ同 . . . 本文を読む
即身成仏義
わずかに曼荼羅を見れば、能く須ゆの頃に浄信す。
歓喜の心を以て瞻都せんとするが故に、 即ち阿頼耶識あらやしきの中に於いて金剛界の種子を種う、と。 <この文は、初めて曼荼羅海会の諸尊を見て得る所の益を明かす。> 具に灌頂受識の金剛名号を受く。
わずかに曼荼羅を見れば弟子はたちまちのうちに清らかな信心を得る。弟子は歓喜の心をもって曼荼羅を仰ぎ見るがゆえにすなわち阿頼耶 . . . 本文を読む
衆生を苦しみから救うことが兎に角当面の大問題です。ここに菩薩道があるのです。地蔵菩薩は六道を輪廻して衆生済度をやるのです。・・しかしここにまた記憶すべき一事は、菩薩の大悲心なるものは絶対で無限で無目的的であるが、それはただ抽象的に概念的に一般的にしか云はれるのではなくて、一事一物のうえに時間的にも空間的にも具体的に働くといふことです。・・法華経には如来は無量劫の過去に正覚を成じたが、今なおこの娑婆 . . . 本文を読む
勢至菩薩は13佛の一周忌を司る仏さまでご真言は「おんさんざんさくそわか」で、また午年の守護佛ともされています。しかし意外とその功徳は知られていません。
・密教大辞典には「勢至菩薩」として「・・観音と共に阿弥陀仏の脇侍とするのは観無量寿経に『智慧の光をもって普く一切を照らし三途を離れ無上の力を得る』と説き、観音の慈悲に対して勢至菩薩は智慧の立場から救済するとされるため、観音ほど信仰は得られず独立尊 . . . 本文を読む
明日10月30日、緑公会堂で公開講座「印融法印と中世横浜」(横浜市内の30の寺院から構成される「印融法印五百回忌実行委員会」主催)が開催されます。講師は横浜市歴史博物館の遠藤廣昭氏と歴史研究家の相沢雅雄氏ということです。参加無料・申込不要(当日先着450人)となっています。また11月6日には「印融さんの足跡をたどるウォーク」も開催され生誕地をはじめ、緑区内に点在する印融法印ゆかりの地を歩く、といい . . . 本文を読む
即身成仏義
(『五秘密儀軌』の成仏法について)
また云く、 「もし毘盧遮那仏自受用身所説の 内証自覚聖智の法、 及び大普賢金剛薩埵の他受用身の智に依らば、 則ち現生において曼荼羅阿闍梨に遇逢い 曼荼羅に入ることを得。 為く、羯磨を具足し、普賢三摩地を以て 金剛薩埵を引入して、その身中に入る。 加持の威徳力にゆるが故に、 須臾の頃に於いて当に無量の三摩耶、 無量の陀羅尼門 . . . 本文を読む
日本の仏教には弥陀の他に観音・地蔵・薬師などの菩薩様がありますが、この中で最も民衆的なのは観音様です。しかし何れも大悲心の権化であることは変わりませぬ。観音様は三十三の変化身で人間の前に現れてくるとされていますが、しかし人間のあこがれは三十三と限られたものではなく、それは個己の場合で相異するのであるから、観音はそのあこがれ又は要請に応じて如何なる形態でもをとり得るわけです。主眼とするところは観音は . . . 本文を読む
阿弥陀の側では四十八願(または無量劫にわたる無量数の誓願)、衆生の側では不断の念仏(お祈り)と懺悔・・宗教の本質は之に尽きているのです。何れも華厳の法界を成立させてゐる大悲心の発露にすぎませぬ。 弥陀の方はともかくとして、吾等衆生の方では心の底に何となく不安の気分のとれないものがある。知的分別と道徳的当為だけの存在では満足できぬものがある。何かわからぬが人間を越えたさうして人間に最も関係の深密な何 . . . 本文を読む
多くの人の臨終を見てきましたが、心から安らかな死を迎える人はまれです。皆、不安な表情で死を迎えます。笑顔で死んでいく人はほとんどいません。これは生前全く死に対する深い心構えが出来ていない為でしょう。
「精勤して心を習ふものは終わる時も悔恨なし。心意すでに専至なれば錯乱の念あることなし。智者は勤めて心を捉ふれば臨終には意散らず。心を習ふこと専至ならざれば臨終にな必ず散乱す。(往生要集上)」(源信の意 . . . 本文を読む
菩薩の行動は(衆生無辺誓願度という尽きることのない目的に向かっていくので)無目的的であるといってよい。此の点では自然界における他の存在と等しい、動物的または植物的だともいえる。なるほど今庭に飛んできた一羽の小鳥-- 人間的分別識の眼から見ると何か餌食を探しに来たのであらう。無目的的では決してない。或は他の生物を取って食べようといふのでもあらう。如何にも無惨だといってよい。ところがそれにもかかわらず . . . 本文を読む
ダライラマ側近のモンゴル人チベット仏教高僧、アジャ・リンポチェ師が11月3日(金・祝日,無料)
護国寺で講演会を行います。
又4(土)・5(日)日と同護国寺で
読経と瞑想指導(有料)(有料)を行います。申し込みはEmail:tmbccjp2013@gmail.com
. . . 本文を読む