monologue
夜明けに向けて
 



 高校時代にはどんなことがあったかさえよくわからなかったが現在はネット上の情報を検索すればかなりわかるようになった。サム・クックの死亡について実際になにが起こったのか調べてみる。

 1964年12月11日、カリフォルニア州ロサンジェルス市 南フィゲロア通り(South Figueroa Street)9137番地のハシエンダモーテル( Hacienda Motel)で管理人バーサ・フランクリン(Bertha Franklin)は警官にサム・クックがかの女を脅かしたので防衛のために射殺したと告げた。警官はフランクリンの管理人室でスポーツジャケットと靴だけを身に付けシャツもズボンも下着もなく性器を出したままのかれの死体を見つけた。そして結局、射殺は正当防衛と裁定された。


 モーテルのオーナー、エヴェリン・カー(Evelyn Carr)はフランクリンが受話器を置き酔っぱらいと話しをつけるためにドアへ行ったのを聞いた。発射音を聞いたあとカーは電話を切り午前3時15分頃、警察に"I think she shot him,"と電話した。
 
 その7分前に警察はモーテルの1区画先の電話ボックスからエリサ・ボイヤー(Elisa Boyer)から誘拐されたという通報を受けていた。かの女は下着姿で逃げて服を着るために吹き抜け階段で止まった、と言った。パトカーがサイレンを鳴らして現場に駆けつけ、そしてサム・クックの死体を発見した。かれのフェラーリはまだオフィスの外に置かれ運転席側のドアは開きエンジンは回っていた。警官が到着して数分後エリサ・ボイヤーが自分が死んだ有名人の被害者であるとして歩いてやってきた。

 警官はフェラーリの中にスコッチのボトルを見つけた。クックの所持品は、腕時計、108ドルの紙幣のクリップとバラ小銭。クレジットカードと運転免許を入れてある薄い札入れは見つからなかった。マルトニズ(Martoni's )レストランの証人はかれは多分千ドルのカタマリを持っていたと言った。しかし警官はカタマリではなくキチンとクリップにされた紙幣しか見つけなかった。かれらはボイヤーの財布を調べたが20ドル紙幣一枚だけしかなかった。

 バーバラ・クック(Barbara Cooke)は米国中にニュースで報じられる夫の死亡状況を羞じた。それでも三日に渡る最上の別れを開催した。プラスチックの蓋から見える、バーサ・フランクリンにホウキの柄で打たれた顔のアザを多くの来場者は指摘した。
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 以上のようなことが起こったという。あれから45年も経過して初めてわたしは高校時代のアイドル、ソウル歌手、サム・クックの死についての情報を得ることができた。さぞ無念だっただろう。
fumio


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