ボビー・フラーは故郷エル・パソで新たなプロジェクトのためにミュージシャンを募っていた。そのミュージシャン達が約束のその日1966年7月18日午後5時にボビーのアパートに向かった。到着してかれの車がないことに気付いてアパートのベルを鳴らしても返事がなかった。ボビーの母ロレインが手紙のチェックに出ていって駐車場に行ったとき、そこにかの女がテキサスから乗ってきた家族の車、オールズモビルがあるのを認めた。かの女は走って運転席のドアを開けた。ガソリンの匂いが鼻をついた。ボビーはフロントシートに横たわっていた。ロレインは「キーはイグニッションに入っていました。まるで車をスタートしようとしたように手はキーの上にありました。眠っているのかと思って名前を呼んだけれど近付いてよく見ると寝ているのじゃなくて死んでいるとわかりました」と言う。
ロサンジェルス検死局の公式検死報告は「死体は車のフロントシートでガソリンを缶3分の1ほどかぶってうつ伏せで見つかった。胸と肩に過度な打ち身があった。窓は全開でドアはロックはされず閉まっていた。キーはイグニッションにはなかった。死因はガソリン吸引のための窒息。」と語る。
ボビーは衣服と髪もガソリンにずぶ濡れだった。かれの身体は完全な死後硬直を呈し死後3時間以上の経過を示唆していた。目撃証人達はボビーが喧嘩の最中に殴られたように見える、と証言した。まるで後ろに曲げたようにかれの右人差し指は折れていた。こんなすべての証拠を無視してロサンジェルス市警はボビーの死は自殺と判定した。公式警察報告は「犯罪の証拠はない。本件は終結した。カリフォルニア州法の下に封印して残される」ということであった。そしてボビーの亡骸は7月20日にバーバンクの霊場フォーレスト・ローンに埋葬された。
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推理小説ではなく本当にあったことなので概要を語るだけでこんな長くかかったが以上が事件の顛末である。だれが見ても辻褄があわないことが多すぎるこの事件はなぜカリフォルニア州法の下に未解決のまま終結したとして封印して残されたのだろうか。裏でどんな力が働いたのだろうか。
fumio
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