能登半島地震後3月29日に町議会が、公共施設や金融機関など町内16か所に設置した義援金の募金箱がなくなったという。残念なことに災害や事故にはいつも火事場泥棒が暗躍して善意の人々を暗澹とさせる。
こんなことがあった。
1978年1月の小雨降る日、わたしは授業が終わってオリンピック通りを東に走ってウェスターン通りとの交差点の信号が黄色になり左にターンしているとき、信号が変わる前に渡ろうとスピードをあげて突っ込んできた車と衝突した。わたしたちのフォード・ピントーは数回回転して止まった。数週間後に結婚を控えたわたしと妻は少しの間気絶した。バス停で待っていた人々が一斉に集まってきて介抱してくれる。
それはほとんどがアフリカ系アメリカ人(黒人)だった。身動きできずボーとしたまま、ただ親切な人たちだと感謝した。すぐに救急車がやってきて運び込まれたUSCジェネラルホスピタルで診察を受けると、額をフロントガラスにぶつけた妻は目の上が膨れ、わたしも額の傷だけで他に異常がなく、安心した。翌日、車を見に行くと完全にクラッシュして使いものにならないことがわかった。中にあったギターその他の仕事道具を調べるとだれかがすでに持っていってしまっていた。日本語の譜面まで盗らなくても、と思った。妻は身につけていた財布をとられていた。車の中を何度探しても見つからなかった。だれかが介抱しているふりをしてとったらしい。そのころのわたしたちは気絶している間も気を抜けない、ということをまだ知らなかった。
その時、妻の腹にいた息子が、その年の独立記念日に生まれてわたしたちはハリウッド地区のアパートを出て事故に遭った交差点の近くの地区に借家を見つけて移転した。
そこは、当時は白人と黒人の店が多かった地区だったがしばらく住んでいるうちに次第に韓国人が増えて以前、黒人がやっていた店にハングルと漢字交じりの看板がかけられた。
わたしの目にもハングルと漢字はその町にそぐわないように見えた。
イランのパーレビ王の政権を倒すためにそれまでイランからの留学生を大量に受け入れていた、アメリカ政府の方針が変わり、そのころから韓国を優遇しだして韓国移民が飛躍的に増大したのだ。
やがて町の名前もKOREATOWNになってしまった。
わずか数年しか住んでいないわたしでさえ、わが町の新しいその名前に馴染めなくてその標識を見ると心の中にしこりのようなものを感じた。しかし、もっと大きなしこりを抱えた人たちが存在していたことが明らかになるときがくる。
それから十数年経過して日本に帰ったわたしたちはニュース番組であのなつかしい町の見慣れた景色を異様な事件の舞台背景としてふたたび目にすることになった。
1992年4月29日白人警官による黒人青年ロドニー・キング氏殴打事件に端を発したロス・アンジェルス暴動が発生した。
アフロアメリカン(黒人)たちは自分たちの町を韓国人に奪われたと錯覚した。
韓国人が奪ったのではなくアメリカ政府が外交政策の転換によってあの町をKOREATOWNにしたのだった。少数人種間のトラブルは支配者たちの操る見えない糸に左右されている。被支配層は牙を支配者に向けることを知らず、わずかな権益をめぐってお互いを傷つけ合う。
既得権益をもつ支配者たちは様々な法律で自分たちの利益を守り、巧妙に被支配者層同士の対立を煽る。
為政者たちは被支配者層同士が噛み合って落とした肉を火事場泥棒のように狙っている。その図式は歴史においても現在の世界政治経済においても変わらない。しかしそのことに気づいた人々が今新たな時代を築こうとしている。
fumio
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