旧暦を使っていると、普段何気なくしていることが、深い意味を持っていることに気づく。知らずしらずに潮の満干潮に眼がいったり、月の満ち欠けに宇宙を見上げる。星の動きに、時間がわかったり、星座の位置で、季節の変化を知るのだ。
或いは、農耕の時期を風や雨に教えてもらい、朔や望に作物の出来を知ることができる。最近の小説にはそういった配慮が欠けている。リアルかもしれないが、何か心が動かない。とても違和感を感じてしまう。ファンタジーを書く人には特に、願いたい。
それは理屈ではない。宇宙の摂理、森羅万象は、神の決めたことで、今更変えることは不可能だからだ。起きるべき事件であり、要因が決まっている。その謎解きが面白い。シャーロック・ホームズ、マープルおばさん、ジェシカや、名探偵ポワロなのだ。
源氏物語には、その随処に、月の状態や、風や雨のことが出てくる。季節の在り様が書かれている。またそれらが眼に浮かぶから、その次が読みたくなる。暦の順番が決まっているから、次にはどうなるかわかる。そのどんでん返しが面白い。
科学的な根拠がある訳でもない、然し、理路整然と並んでいる。その配列、行列にはギョッとさせられる。何はさて置き、其処に鏤められる、数多の星の如く、不思議も秘められる。そういった小説に出遭うと、逃れられなくなる。
旧暦での生活と、枇杷葉との関係は、切り離すことのできないもので、不思議な力が宿る。自然からの恵みを、あらゆる角度で受け、放ち、取り込んでいく。見えないものが視え、わからないまでも感じていけることこそ、素晴しいことに想う。
奥の枇杷葉=サンタ枇杷。手前の枇杷苗は、地植にしたの、鉢植えなど数本ある。