枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

自然との共有・・・

2012年09月05日 | Weblog

 蜂が巣をかけた。これで3度目だ。自然の中での異変を、蜂は知っているのだ。本能のなせることとは言え、人間への警告でもあろう。生きている限りは皆、死と隣り合せでもある。死にたくはないが、生きていることの最高傑作が死だ。

 病気で余命幾許を宣告された者も、事故で突然命を断たれた者も、或いは、動くことも儘ならず、植物状態の者もいよう。子どもも、青年も、高齢者も、何時命が尽きるかは不明でもある。だが、知っていたからとて、どうすればいい。

 神とは宇宙であり、この世は神の意思で創られている。地球上の命の全ても、神の意思による。その自然との中で人類は、自分勝手なことばかりし続けている。何かの歯車が違うのだ。営利を貪り、私腹を肥やし、思い通りの世の中にしようとする。

 田畑を、山を、海を汚染し、生き物の生態を狂わせ、何れは影響のあることを懸念しつつ、責任のなすりあいをする。原発を造り、稼動させ、核のゴミを積み上げ、放射線を撒き散らし、平和で快適な生活を求める。

 商王・紂王の后、妲姫は、酒池肉林の宴の時、天に雷が鳴り渡り、一寸先も見えない雨の止んだ後、唯一人無事であったと言う。シャーマンである。実際に見た訳ではないから、史実はわからないが、天が生かしたとも云えよう。

 雷は、ギリシャ神話では、大神ゼウスの放つ杖。ゼウスも、苦渋の判断の時にしか使わなかったとあるが。日本では、雷様は桑のある所には落ちない。と言うのも、桑は、天の虫が食べる物で、その大切な木には落とせないという。

 枇杷葉の新芽と、そこに残っている青い実。

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