勤務に行ってみれば、予期してはいたが、利用者になって過ごす日と言う。何の準備も無しの実践に、びくつく。思ったことを、どんな小さなことでもいいから。というレーポートを、頭がぐちゃぐちゃになりながら書く。然し、何もせず、狭い空間で居ることは、とても疲れる。
可能なら、空気圧を利用した移動手段ができないものか。体をやさしく包みこみ、動こうとする方向へのバランスを取る。或いは、重力の関係で、空気が凹んだり、被さったりすれば、転倒することもなしに、自力で動けるではないか。
それには、自分でしたい思いがなければならないが、そういう小さな思いもあれば、生きることに繋がるのではないか。と思う。動けないこと、自分でできない事は苦痛だ。住み慣れた家で、できるのが望ましいが、止む無く施設に行ってもせめてとも思う。
人間の尊厳と言うが、排泄を自力でできることは、生きようとする希望だ。できれば手伝わないでほしい。トイレは自分でしたい。その想いが強い。況してや、紙ではなく、布がいい。トイレこそ、いやトイレだけは、世話になどなりたくない。
薬は、必要かも知れぬが、できれば飲みたくない。歳を経れば、身体共に衰えていくのが、当たり前である。生き永らえて、ベッドの括りつけられて、何がいいことがあろう。生きたいように往き、死にたくなったら死ねるのが理想。
願わくば献体をし、使える部品は、必要な人に譲りたい。角膜も、腎臓、膵臓、心臓。それで誰かの命が永らえるのなら、どうぞ。いつ何時、事故に遭うかも知れぬし、不測の事態が起きるかも。肉体は仮の住まい。魂はあげられません。
枇杷葉茶を飲み始めて、実に奇妙な体験をする。白昼夢というか、そういった幻覚めいた経験を、いくら説明しても、わかることはないだろう。でも、視える。わかるんだ。科学的な立証はできないが、肌に伝わってくるのが。
今年の我が家の薔薇。いつの日か、青い薔薇の咲くことを夢見て。