枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

待望の休日

2014年01月03日 | Weblog

 休みだぁ!歓んでいたものの、上天気に起き出す。布団を干し、洗濯機を回す。日常的なことは正月と云えど、何等変化はないものだ。寝正月などあるまじき。お腹が空くので駄目です。昼前に嫁が連絡してくる。雑煮をする予定で待っていたら、賑やかにチャイムが鳴った。

 玄関を開けた孫が、明けまして、と言いつつ入ってくる。林檎を剥いたり、煎餅を出したりのもてなし。麦が生えてきたのを見せるが、あまり感動していない。蒔いた割には発芽していない。野鳥に啄ばまれたのか?孫に麦踏を教え、はだしのゲンのことを話す。昭和は遠い。

 穏やかな一日に、洗濯物も乾き、布団もふっくらした。自分が気持ちよくなりたい為だが、自然の力はすばらしい。その力がなくては、人間は何もできない。枇杷葉の花芽を嗅いで、心が和む。明けて暮れてゆくことも、当たり前であって、存在することも当然かもしれないが。

 自然の中に生かされていることを想えば、千歳一隅なのかもしれない。今日があるからと言って明日があるとは限らない。災いは何処にでもある。それらを気転であったり、運気を遣っての才気で補って、無難な日々を送りたい。枇杷葉にあまねく援けてもらっての現実だ。

 某新聞に、認知症の記事があり、それらを読んでいて、その通りと思う反面、実情はこれほど難しいことはない。何しろ、相手は生きており、日々過ごしているということがある。私達にできることは限られているし、一条の光さえ見えないこともある。共に考えて歩まなければ。

 人間は、歳を重ねていく毎に、尊敬もされ、価値も見出される。普通の人であって正しく、異なっているからと疎外できない。命を終えるその日まで、他人に添うことは容易くない。然しながら、症状に合った方法も見出し、努力することを学びながら、見守っていくしかない。

 日本の四季に通じる行事を、旧暦で行う手立てはないものか。新暦の速さには、高齢者は付いていけないことも、四季折々の食べ物や催しが、或いは記憶を呼び覚ますかもしれない。母や、祖母がしていたことが、今更のように思い出される。古里は何時も佳きものだ。

 昨年の夏に友人と訪れた。6月の中旬が見頃の笹百合。白色と、淡い桃色があり、薄い緑色もあった。パステル系の百合は美しい。

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