寒中だという事を、忘れそうであった。夕方に差込があって、しまった。と思った。油断大敵である。孫等の迎えと重なってしまい、慌てていたのも確かだ。懐炉をつけていなかったのもあり、冷え込んだのだ。息子の家に着いた頃に、気分は悪化。
夕食も咽喉を通らず、早々と引き上げて、孫等のためにつけていた炬燵に潜る。気力がなかったので、じっと眼を閉じていた。それでも3時間ばかり、うとうとしたらしい。懐炉をつけたのもよかったのか回復。熱も無く、ふらつきもないので起きる。
7連勤が堪えているのか。以前には、8連勤もしていたのが、年齢の衰えもあるのだろう。仕事事態は、慣れてきたことにもよるが、研修に参加して学んだことを、自分なりに工夫をしたりしている。抱えない介護は随分と助かるもの。それなのに。
気分転換が必要かもしれない。今春に、リエさんちにお邪魔したい計画をしているが、さて孫等の休みがどうであろう。四月になればJRは運賃を上げるし、孫は中学生だ。然るに三月中がいいのだが・・・。前途多難か?先行きが怪しい雰囲気。
夕刻の宇宙には、木星が一際明るい。月が出ていない時点で、宇宙に輝く。注文していた天文年鑑には、今年の宇宙の見ものが満載している。何も彗星だけが観るものではない。自然の移り変わりの中には、定期的なものもあれば未知もある。
その異変を知ることによって、古来の人々は、自然を敬い畏れてきた。或いは、様々な要因を何等かの事例と結びつけ、忠告や諌めを行ってきた。それらを聴いて、正しく判断してきていたなら、原発による事故も防げた。神の怒に他ならない。
枇杷葉の花芽が、咲いているのといないのと、はっきりしてきた。蕾の状態のものは、今後は決して咲かない。このまま枯れる。摘芽にする基準になる。失敗を繰り返して、ようやくわかった次第。それにしても、花芽どころか苞さえも他所のはない。
遊歩道を歩いていると、風の向きで匂ってくる。きっとあそこの家のだとわかる。手入れの仕方が違っている。真心が視える。それを枇杷葉が語ってくれるのだ。その気持ちに応えるように苞がつき、花開き、実が生るのだ。人間もそうありたい。
3分間、人前で話すのに、どのくらいの言葉が必要か?原稿用紙にして、およそ10枚だろうか。早口でももったりでもなく、歯切れのいい話し方で、声の高低をはっきりさせれば、言いたいことの概要がわかる。起承転結は無論、背筋を伸ばして。
百日紅の白。小さな苗木だったのが、今では2mに及ぶ。薄い桃色と濃い桃色。赤の混じりに紫が咲く。