成人式には出席しなかった。式典自体が厭であった。同級生が、振袖を着飾っていく姿にも、何となく違和感を持った。祖母が買おうか、と言うのを断り、口をへの字に曲げていた。例え、作ってもらったにせよ、着る機会は数少ないだろうし、自分では着られない。
高価な箪笥の肥やしには抵抗があった。洋服にしても、値段にデザインに迷うばかりだった。それならいっそ行かない。と出席しなかったのだ。でも、大人になれない訳ではない。着物の価格を競い合う式典に嫌気が差した。娘は、出席したが洋服姿であった。
ロイヤルブルーのベルベットのワンピースは、誰よりも凛としていたらしい。どんな格好であれ、成長した子どもを祝う気持ちには変わりないのだ。然し、それまでには躾をして、人としての生き方ができるよう、自立させておきたい。成人とは親の躾の結果なのだ。
子どもの頃に、親から言われた言葉の中に、自分の存在を否定したり、投げやりになることもあったが、生きることには、容易くない年月が含まれるもの。況してや、自分の思い通りに事が運ぶ道理もない。苦しみや哀しみが多く、その結果に歓びが増え、愉しめる。
何度、挫折感を味わい、どん底まで落ちたことだろう。然し、ゴーリキーではないが、底からそれ以下はない。さすれば上がっていくだけだ。その際、落ちないように色々と考えたりすることができる。或いはまた、落ちそうになっても、何処かで踏ん張れることもある。
誰かのせいにしたり、自分には無関係と思っても、さしたる進歩はない。千里の路も一歩からである。頑張り過ぎないこと、諦めないこと、思考を変えてみることも大切だろう。そのためには、如何なる時にも努力を惜しまない。踏まれても咲く野の花で好いのだ。
人間であることを驕ってはならない。謙虚過ぎてもならず、常に学ぶ姿勢を持ち、人の話に耳を傾ける。それは、生きざまでもあろう。其処には、信念を貫くことに匹敵する忍耐がある。生半可なことではないが、何かのためにも、命を使い切りたいものと思う。
夏中、咲いてくれた赤のベゴニア。挿し芽にして増えるので、増殖中なのである。冬場には室内で時を待つ。