今朝、耳が痒かった。雨になるか雪だろうか?案の定天気は回復し、晴れ間が見えた。この時期は、西高東低なので、比較的晴れ間が多いのが特徴で、雪が舞うのも珍しくない。県北は積雪のみられる所もあり、県南では雨に変わる。それにしても降雪は少なくなった。
成績の善し悪しと、頭脳明晰とはどのような関係があるのだろう。義務教育という名の下に、勉学に勤しんでいた頃には、教師との相性が大きい。教え方の下手な先生では、理解に苦しむことが多かった。単純明快、何故そうなるのかがわからなかった。教師不信に陥る。
その不満を、きちんと聴いてくれて対処するのが、教師ではないのか?ところがついていけれない生徒はほったらかし。つまりは落ちこぼれである。先生は教師なのだから、わかっていて当然だろうが、わからないことが伝わらない。だから自分のことを良く思えない。
況してや、頭がいいから、とか言われると、却って莫迦にされたようで腹立たしい。わからないからこそ努力をしているのだ。独学でやれることをしている。それには、図書館に行って、書籍を読むのが好ましい。だが、疑問が生じても、誰も答をくれないし、結果も未定。
更に、知識を深め高めていくしかない。要は、自己満足の至りだ。誰かと話し合って、違う意見を聴いたり、自分の思いを話してみたいが、さて相手が乏しい。それでも、誰かの命令で動いたりするのはもっと厭だ。行動に責任を持ち、思考して遣りたい。人間は考える葦。
読書の愉しみは、他人の悪口を言わなくていいし、好きな時間に読める。ジャンルも豊富だし、専門書も膨大である。損得ではなく、自分を豊にするための方法だ。然し如何せん、資金が不足しているので、自由な時間は限られる。学ぶことには制約がないのも救いだ。
極めることは無理だとしても、目安としては何でも一通りのことは知っていたい。だが、知らなくてもいいこともある。専門的な分野には、それらに相応しい人が居る。能力の限界を感じながらも、人を見る目の確かさと、内心の動きを察したい。君子危うきに近寄らずか。
江戸時代であった頃、奉公人には年に2度休みがあった。薮入りである。この日は、早朝から実家に出かけ、親の顔を見に、或いは芝居見物等に出かけてもお咎めがなかったそうだ。それだけに1年を辛抱して働いていた。考えることが増え、休日はぐったりになる。
ねじ花。田舎の田の畦や畑にあり、ままごとの料理になっていた。農薬の影響で、すっかり姿を消してしまった。