未だ、末吉暁子さんが亡くなった実感がない。同じように、佐藤さとるさんが居ないのが、どうしても信じられない。逝ってしまった人を、現世に戻せる方法はないが、この募る想いに淋しさが込みあがる。枇杷葉の下に佇めば、懐かしさが堰を切り溢れる。
上京の度に、やさしかった暁子さん。誰にでも同じ態度で、それでいて細やかな心遣いをされていた。がんこちゃんの人気が衰えないのは、暁子さん特有の資質でしょうね。わたくしの持っている縫いぐるみには、赤穂で逢った時の、サインが記されてる。
佐藤さとるさんが、ファンタジーの日本を、世界にも通じる児童文学作家と知り、その方が目の前においでなのを夢心地で居た。憧れの方は、やさしい微笑で話してくださり、一緒に写真に納まってくれた。以来、サイン本を送ってくださり感激に小躍りした。
自分の人生を振り返ってみれば、なんと華やかなことだろう。そのきっかけを作って下さった方にも、チャンスにも感謝しよう。明日に命が終えようとも、こんなに幸せなことはない。枇杷葉との出遭いにも、不思議な運命を感じる。時間と空間が交差されて。
昨日の寒さは半端ではなかった。分厚い氷が出来ていたし、大霜に霜柱が立っていた。すばるは震え上がって鳴くが、暖房器具を点けたままだと、火事になったら困るでしょ。湯たんぽが安全で温かいので辛抱してよ。炬燵だって危険で留守には用心。
新暦では、既に年の瀬まで10日を切る。冬至が過ぎれば、あっという間の年明けとなる。年賀状を書かねば、と思いつつ筆が進まぬ。今年で止めるが、命の儚さに胸が篤くなる。時は止まってはくれず、アメリカの飛行も、横暴さもまかり通る。世の中不穏。
平日の駐車は、時間が遅くの出勤は、遠くになってしまう。夕方の遊歩道を5分以上かかるが、微風に枇杷葉の花芽が漂って、やさしい香りを流す。枇杷葉は、バラ科なので、その匂いは馥郁としたものだ。すばるが薬に遣られて、餌を食べなくなってしまう。
帰宅したら、寒さに震えながら、出窓の指定場所に居た。餌には、全く手を付けずである。腹が減っているのは明らかで、獣医から帰宅したら、流石に三日は辛くがっついていたがどうしたんだ。注射をされた時、叫び声を上げたが、どこか神経を痛めたか。
手術に連れて行かねばよかった。連れ帰ってから、元気がない。飼い主に似てしまい、医者も薬も嫌いなようだ。猫だって、人間の心が分るし、ちゃんと喋るんだよ。聴こうとすれば聴こえ、観ようとすれば視える。霊感がある無しでなく感応力の使い方か。
春の宵は、何が動き出すか分らない怪しさがある。月の美しさに魅了されて、時を忘れて見惚れてしまう。