先月の閏月は、4年に一度の時間での調整だった。旧暦の1ヶ月は殆どが29日と30日、これに閏月が入れば28日も珍しくない。理由としては、月の満ち欠けなのもありならざるを得ない。人間の身体は、体内時計の影響も多くある為拘わりも無関係とは云えないもの。
身体の変調を訴えるのに気づき、異変と想定すれば病には罹らない。これまで新暦を当然の如く使ってきたが、過酷な生活に支障を来した。夜空を眺めつつ、何かが可笑しいと自問自答の結果判る。月の満ち欠けと、潮の満干潮や若潮・中潮・長潮・小潮・大潮。
それらに加えて、季節の旬を大切に暮らすことは身体にやさしいと覚えた。介護施設に勤務時、優先したのが塩換えとする朔日。日捲りは、ガス屋提供で見てはいたが思いは至らずである。事の重要性に勤務を換えて日々を過ごせば、気持ちが安定し視え始めた。
枇杷葉に援けて貰えるのも、気づきがなければ元の木阿弥とも知る。自然からの訓えには、一切の無駄はなく聴こえることへの感謝と祈り。森羅万象の存在も、疑えば限がなく失せてしまう。殊更に希み願いをかければ叶わぬ時には、絶望の淵とも覚え無心にあれと。
自然からの命を戴ける有難さ、生かされての感謝に通じ亘れ至るは弥勒の導き為りとも。その一連の刻を廻れば煩うこと少なく、必要な物を与えられると覚り逝く潔さでありたい。庭の花木に、仲春到来を告げられし癒される。小さな景色想える心を、養えて一日とする。