日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

十字軍物語 3⃣ 第五次十字軍(1218~1221)わずか3年‼

2021-08-17 22:46:14 | 読書

 

 

 リチャードとサラディンの講和は1192年。

講和の期限は3年8か月と決めた。

では、その”後” は再び戦闘状態になったのかというと、全く ち・が・う!

期限切れの1196年には平和が破られてもしかたなかった が、そうならなかった。サラディンは1193年に亡くなっている。リチャートも1199年にこの世を去った。それでも尚、二人の間で締結された講和は更新され続けた

兄、サラディンの権力と地位のみならず、その ”想い”までも受け継いだ弟のアラディールが更新し続けたからだった。

そのアラディールには、キリスト教側に格好の協力者・理解者、バリアーノ・イベリンがいた。

イベリンが世を去った後も代々のイェルサレム王に受け継がれ、アラディールは1211年、その前年に王位に就いたブリエンヌとの間で、講和の更新をしていた。この講和は1217年までの6年間。これがアラディールがキリスト教側と交わした最後の講和、つまり共生の試みの最後だった。

1192年から1217年までの共生。実に四分の一世紀の25年間!『人』と『物』が交流し、双方が平和を享受した。特に経済の方は盛んになる一方だった。

ヨーロッパから十字軍がやってくる、となれば、平和が享受出来なくなる状態になること。「十字軍❓ やってこなくてもいいよ」中近東に住む大方のキリスト教徒の気持ちだった。

 

一方、ヨーロッパでは~

しかし、ヨーロッパに住むキリスト教徒は、そうは考えなかった。

まず、第四次十字軍でヴェネツィア共和国に大きく距離を開けられたジェノバが第五次十字軍に参加することで失地挽回を期したから。

次にローマの法王は、”今度こそ” 十字軍の主導権を(前回はフランスとヴェネツィア共和国だった)法王庁に取り戻そうと、法王ホノリウスは、「法王代理」ぺラーヨを送り込む。この人がまた、最悪なんだわ...

フランスなどその他の王は、神の戦いどころか、人間の戦いに忙しく、この時期、十字軍どころではなかった。

他にはノルウェーの王、ハンガリー王、オーストリア公が向かう。しかし、彼らは聖地を訪れ聖遺物を貰うや帰国したため、結婚資金を都合してもらい、法王庁に弱い立場にあったイェルサレム王、ブリエンヌが法王にお尻を叩かれエジプトへ向かった。

こうして、中近東のキリスト教徒が全く気乗りしない形で、第五次十字軍となったのだった… アーメン。

 

この時、アラディールは73歳という高齢者になっていた。長男のアル・カミ―ル、ほら、あの12歳の少年だった、彼ですよ! すでに38歳となり、有能な指導者だったが、新旧の世代交代期は、長年善政で鳴らしてきた旧世代が退くだけに、シリア派、エジプト派の間で権力の引き合いという問題も表面化し、微妙な時期だった。

 

1218年5月24日、キリスト教側、ダミエッタ上陸。

このことを知ったアラディールもエジプトへ向かう。

父からエジプト統治を任されていたアル・カミ―ルもエジプト軍を編成し、北上。ジェノバ艦隊攻撃開始から3か月後、ダエミッタ陥落。

その一週間後、かつてリチャードが、「話が分かるイスラム教徒だ」と感心し、彼の側近から「フランク人みたいなイスラム教徒」と言われたアラディールも、そのフランク人に攻められる中、この世を去った。73歳だった。

 

そんな中、法王代理がダミエッタ到着。

どちらに指揮権があるかで、法王代理ペラーヨイェルサレム王プリエンヌの間で日増しに険悪化。

アル・カミ―ルも突如、軍を撤退。弟の一人を担いで反旗を翻した大守の一派を鎮圧するためだった。

双方とも、動きが取れない状態に。

 

この時期、修道僧フランチェスコが登場。どのような経緯で参加できたのかは分っていないらしいが、アル・カミ―ルに敵の陣営地で直接会い、キリスト教徒に改宗するよう、勧める。スルタンの周囲に居た人達は、殺気立ったらしいが、少年の頃、騎士に任命されたアル・カミ―ルだから~ 微笑して、キリスト陣営へ送り届けるよう命じただけだった。

 

アル・カミ―ルから、講和の提案 (1)

10月、ダミエッタを攻撃中の十字軍をスルタンから特使が訪れ、講和を提案。その内容は、十字軍には信じられないものだった。

エジプトから出て行ってくれさえすれば、イェルサレムは返す、というのだ。

しかも、リチャード・サラディンの講和でイスラム側の領土と決められたガリラヤ地方までも返還する用意あり、というのだ。

しかも! これらに加え、これら地方に点在するキリスト教側の城塞の維持費を毎年、支払っても良い、とまで言うのである!

想像もしていなかった好条件に、イェルサレム王も領主たちも講和に大きく傾いた。なにせ、十字軍の最終目的は平和と聖地奪還だったのだから。

と・こ・ろ・が、である。

あの「法王代理」が立ちふさがる。

「そもそも異教徒と講和など、結べるか~! 話合などもってのほか!全員殺せ! 神が望んでおられる」

「血を流すことで奪還しべき!」

 

これ以上はない好条件を…受け入れず、拒否。

その結果、2年の攻防の末に陥落した。市内に流れ込んだ十字軍によって、逃げ場所がないイスラム市民の多くが殺される。

だが、今度はダミエッタを誰が統治するかで法王代理ペラーヨイェルサレム王プリエンヌは揉める。

結局は、ヨーロッパから「しかるべき人」が来たら、その人に~ということで落ち着く。

この時点では、争う二人に具体的な「しかるべき人」が頭にあった訳ではないが、その後、26歳の誕生日を迎えたドイツ皇帝フリードリッヒが国内安定後、「十字軍遠征へ行く」という約束の許、皇帝となったことで、「フリードリッヒ待ち」となった。

 

アル・カミ―ルからの提案 (2)

 十字軍のこの動きを察知したアル・カミ―ルは、十字軍が待っているという、この人物について情報取集したらしい。カイロに滞在していたヴェネツィア領事や商人たちから。英名であり、戦闘巧者。「赤ひげ皇帝」と呼ばれた男の直系であること。

 これには考え込んだ、だろうね。あの大軍を率いて(溺死はしても)サラディンでさえ眠れぬ夜を過ごしたことは、父から👂にしていた。

 翌年、2度目の特使が送られる。

講和の内容は、1回目と同じ。更に次の2項が付け加えられた;

❶講和の有効期限を30年とする。

❷イェルサレムの城壁の再建費用は、イスラム側の負担とする。

 

前回より更に好条件の講和の申し出に、十字軍側は動揺した。

だが、またもや、あの「法王代理」ペラーヨが反対した。

 

これほどまでに寛容な講和を二度も拒否されたアル・カミ―ル。

そこへ、この年のナイル河は、増水量が多く、上流から満々と流れてくる、というのだ。アル・カミ―ルは勝負にでた。

ダムの水を毎年、調整していたのだが、この年はしなかった。水があふれだす直前まで待ったのだ。そして一気にダム自体を破壊した。

ナイルの水路にそって北上中だった十字軍。

荷物や兵士、🐴までも流される。町中も安全ではなかった。洪水となった水があふれ、ジェノバ船も近づけなくなった。敵中で孤立無援だった。

 

この状況を知った、アル・カミ―ルは3度目の使者を送るが、その講和の内容は前2回とは全く違った。

❶ダミエッタを放棄し、キリスト教軍はエジプトから完全に撤退する。

❷この講和の有効期限は8年とする。

 

これが3年をかけた第五次十字軍の終わり方だった。

 

アル・カミ―ルは、講和で約束した8年の不可侵を守る。そればかりか、講和に記さなかったサラディン・リチャード間の講和に明記された講和も守った。

なので、この3年間を除き、1229年までの間、再び二人が結んだ講和の状態に戻った。要するに平和を享受できた。

 

まぁ、第五次十字軍とは、やっただけ無駄、であり、その責任は法王と法王代理のペラーヨにある。「不信仰の徒とは、話し合わぬ」「講和など結べぬ」「血を流して奪還」狂信的な信者ほど怖いものはない… 

…で、ですね。

塩野七生さんが、最後にまとめているのです。

「戦争は、人類にとって最大の悪業である。にもかかわらず、人類は、この悪から抜け出すことができないでいる。

 ならば、戦争を 勝った、負けた、で評価するのではなく、この悪を冒した後にどれだけの歳月の平和がつづいたか、で評価されてもよいのではないか」(288ページ10行~11行)

 サラディン・リチャードの講和のあと、3年の負があったとしても、(法王に尻たたかれて)更に8年の平和が続いた、ということは、ここまでで、すでに33年間になる

 

 もしも、さらに平和を享受したければ...

イスラムにはサラディン、弟アラディールの想いを受け継いだアル・カミ―ルがいた。

キリスト教側は?

無血の十字軍を指揮した、皇帝の登場である。

 

 

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安奈 甲斐バンド

2021-08-16 18:57:32 | Electone & Piano

安奈 甲斐バンド

板谷こういんさんとコラボ🎸🎹

Yokiさんが大ファンという甲斐バンドの曲だそうで、板谷こういんさんにお声を掛けて頂き、『安奈』のコラボという運びとなりました。\(^o^)/

甲斐バンド、バンド名は耳にしたことがあるものの、👂 実際に曲を聴くのは生まれて初めてでした! なので、私には難しかったのですが、何とか前奏とサビと間奏を弾かせて頂きました。 こういんさんのお力で、まとめて頂き、動画編集も含めて大変お世話になりました。

余談ですが、クリスマスの曲ということで、ツリー🎄だけは、私が挿入しました。(≧▽≦)

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十字軍物語 3⃣ ヴェネツィア共和国と第四次十字軍 

2021-08-16 18:42:13 | 読書

 リチャードとサラディンのその後

 

 リチャードを見送ったサラディンは、講和を結んだことで安心したのか、半年後にあの世へ旅立った。このことを後でしったソールスベリー司教は、「あと少し留まったなら奪還も...」と残念がるが、リチャードは言った。

 「いや、もし、そうなれば、サラディンも死ぬに死にきれず、更に長生きしただろう」と。

 帰国後のリチャードは、捕らわれの身となり、塔に幽閉され、”行方不明”となった。オーストリア公レオポルドの部下の一人によって。赤ひげ皇帝溺死のあとを任されたレオポルドは、自軍の旗を降ろすよう、リチャードから言われ、怨念に燃えていた。どのように?は省略するが、居場所が”判明”し、赤ひげの息子、皇帝ハインリッヒも、理由もなくイギリス王を幽閉し続けることもできない。1194年、諸々あってリチャード遂にロンドン到着。弟のジョンはひざまづき、許しを請う。リチャード許す。フランス王フィリップの思惑通りにはいかず。(兄弟で争って欲しかった。自分の直轄領土拡大のため)

英仏戦争 リチャードVSフィリップ勃発 リチャードはここでも全戦全勝。彼が留守の間に奪われていた領土のほとんどを取り返す。しかし...。

リモージュ地方のシャリューの地で、いまだフィリップの側にあった城を攻めていた時、一本の矢が右肩と胸の間に命中。1199年4月6日、41歳7か月の生涯だった。(塩野七生:著『十字軍物語 3⃣』191ページまで、要約)

 

 法王インノケンティウス三世

 日本の世界史の教科書にも、ローマ法王の持つ力を最大限に発揮した、と書かれているらしい、秀才法王のインノケンティウス三世

 「法王は🌞太陽、皇帝は月」

この力関係が、第五次十字軍で問題になるのだが...

若輩だった聖フランチェスコを支援し、(のちに彼は第五次十字軍で、スルタン アル・カミ―ルと対面‼

 

 ヴェネツィア共和国の元首ダンドロ

 エンリコ・ダンドロが元首に選出されたのは、インノケンティウスが法王になる6年前の1192年。リチャードとサラディンの講和が成立した年だった。君主制でなく、共和制のヴェネツィア共和国では、20代から30代いっぱいを海外との通商に送り出される。単にビジネスだけでなはい。多民族、しかもしばしば異教徒との交易のやり方を学ぶと同時に航海術も自然と身に付く。ヴェネツィア共和国は、世界で初めて今で言う、領事館、大使館を海外に置いた国で、外交が何より大事。そのための情報ネットワークをいくつも持っていた。

「まず、ヴェネツィア人。次にキリスト教徒アーメン

異教徒とも通商、密約も交わしていたこと、第四次十字軍では、同じキリスト教徒国家であるビサンチン帝国の首都、コンスタンティノープルを攻めたこと、これらが現代も一部のカトリック教徒や十字軍ファン、或はクリスチャンの歴史家から特に嫌われる理由だと思うのだけれど...

 法王は🌞にしろ、まず、(キリスト教徒である前に)ヴェネツィア人、にしろ、互いに信じる事が違う、という点は、歴史の解釈が違ってくる主な理由でしょうね。

 話がズレたが、ヴェネツィアの元首は、このように経験豊かで異教徒を理解しており、洞察力があるリアリスト。しかも国会にあたる元老院で選出される。十字軍に参加か不参加か?も君主ではないので、一人で決定できない。国民にゆだねることになる。しかも、政教分離。現代の民主主義国家に最も近かったのかもしれない。

  

 この時期のヴェネツィア共和国の問題は、リチャードがビザとジェノバの交易商人の船団を活用し、ヴェネツィアはこの2国より劣勢だったこと。

 エジプトとは以前から、経済的に友好的な関係を築いてきた。エジプトとの通商条約も更新を重ねる。リチャード&サラディンの講和がつづく中近東で、目立たないよう浸透を再開した。その結果、1201年に、アラディールとの間で結んだ条約には、公表されなかった一項が入っていた。

「十字軍が遠征することになった場合でも、ヴェネツィア共和国は、エジプトを目標とした軍事行動には参加しない」(206ページ)

 

 スルタン・アラディール

 兄のサラディンがこの世を去った1193年、彼はすでに50歳に達していた。甥たちの間で争いがあったが、それらを終息させたあと、イスラム世界の実力者ナンバーワンになった彼は、ヴェネツィア共和国との間に、「不可侵」の一項をしのばせた通商条約を結んだのだった。

 

 第四次十字軍の主役は、彼ら3人ということになる。

 

 フランスの諸侯たち

 第四次十字軍の話が持ち上がり、彼らが頼ったのは、ヴェネツィア共和国の船と海路と優秀な船乗りだった。諸侯たちの代表6名は、結論を出した。

1.第四次十字軍の遠征の目的地は、エジプトのカイロとすること。

2.遠征には海路でいく。

3.十字軍の輸送は、ヴェネツィア共和国に一任する。

 

第三次の時は、今回の輸送の十分の1だった。今回のような大軍の輸送となると、ヴェネツィア共和国しかいない、ということで意見は一致。かれら6人は、元首ダンドロを訪ねる。

 

しかし、コマッタのはヴェネツィア共和国。密約のことは、勿論、フランスの諸侯たちは知らない。エジプト遠征の十字軍に、加担することは、勿論出来ない立場にいたのだから。

 

結論からいうと、ヴェネツィア共和国は参戦することを決定。翌年の1202年6月24日に出航、それまでに50隻のガレー船と、それに必要な乗組員、戦闘員6千人を国を挙げて準備&投資した。元首自ら率いて参加する。

 

集結地、ヴェネツィア共和国で

「おお、なんという無念だろう。他の地へ行ってしまった騎士たちのことを思うと、キリスト教徒はこの船で異教徒を完全に叩きのめすことが出来ただろうに。それが、ここにいるのは、この艦隊で運べる3分の1でしかない!」

ヴェネツィア共和国は、契約で決まっていた義務を完全に果たしたにもかかわらず、守らなかったのは、フランスの騎士たちの方だった。騎士の多くは他の港から出発していたのだから... 4回の分割払いも、最初の2回を済ませただけ。ヴェネツィア共和国は、ただ、静かに支払われるのを待っているだけ。6月24日に出航するどころの話ではなくなっていた。

1202年10月8日、出航。11月、ザーラ攻略。3日後にザーラ降伏。

 慌てたフランスの諸侯は、ローマ法王へ釈明の書を送る。インノケンティウス法王は、フランスの騎士には理解を示し、ヴェネツィア共和国政府を破門とした。いよいと次は、異教徒を攻めるのだと、はりきるフランスの騎士たちだったが...

 

ビサンチンの息子

 皇子アレクシスは、十字軍の首脳たちを前にして、涙ながらに訴えた。彼の父は皇帝であったのに、弟に位を奪われたのみならず、両目をえぐり取られ、牢に入れられた。息子も牢に入れられていたが、若かったので脱出に成功、アルプスを越え、逃げてきたのだった。

「ビサンチン帝国首都を攻撃し、正当な王位継承者の自分を助けて欲しい」と。

成功すれば、20万マルクを支払うこと。ギリシア正教徒をカトリックと統合させること。

一同は声も出なかった。20万マルクあれば、ヴェネツィア共和国への借金も返せる上に、支払いで心細くなっていた懐も...

 

行先変更

 良心的に思い悩むフランス人の間では、目的地をコンスタンティノープルに変えることで生じた意見の対立が、険悪な様相まで発展。しかし、結局は、大勢がコンスタンティノープル攻撃に向かうことを決定した。

 行先変更の知らせを受けた法王は、またもや激怒した。

しかし... 自分の許で、東西のキリスト教が一つに統合されることに甘美な想いでもあった。そこでビサンチン帝国の首都の攻撃は認めた。

70歳を超えていた元首ダンドロは常に戦前に立ち、軍を指揮をし、そして戦死。

 ヴェネツィア共和国はその後、地中海の女王と呼ばれるようになる。

キリスト教徒が同じくキリスト教国家を攻めたのが第四次十字軍ということで、20世紀の歴史家からは酷評されているようだが... 当時の一般の人々は法王や狂信者以外、誰もヴェネツィア共和国を責めなかった。『絵でみる十字軍物語』でも、5枚の絵が捧げられている。第六次十字軍の絵は、(無血の十字軍)一枚も無いにもかかわらず...

 

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十字軍物語 3⃣ 第3次十字軍;講和へ向けて

2021-08-16 00:02:14 | 読書

 キリスト教側から見れば、第3次十字軍はイェルサレム奪還は実現しなかったのだから、成功したとはいえない、という史実なのかもしれませんが、私はそうは思いません。

 第ニ次十字軍:無血開城👍 元々イスラム教徒の土地だったのだから、”元に戻った” この時点ですでに、キリスト教徒の巡礼に関しては安心・安全が保障されている。(詳しくは過去記事を参照してね)

 第三次十字軍:イェルサレムは引き続きイスラム側に属すとする;元々彼らの土地だから、現状維持は当然です! 違いますか?

 

 「我々二人の間で講和しよう」とうリチャードを助ける形で、サラディンは講和を決断。この日、大守(エミル)の一人は、言った。

 「急いでいるのはあのフランクの王の方で、時間は我々の味方だ」

また、ある者は、

 「フランク王に去ってもらうのは良いが、そのために講和まで結ぶ必要はない休戦で充分だ」と言った。

サラディンは、それらの声を手で押して、✋いった。

 「わたしが死にでもしたら、誰がこのイスラム軍をまとめて行くのか」

サラディン、このとき54歳。リチャードは35歳。人生の残された「時間」は、必ずしもサラディンの味方ではなかった。

サラディンは、ここが大切なポイントなのですが、容易に破ることが出来る休戦よりも、双方ともに結束度が高い講和を結ぶ利点を述べる。

興奮していた大守たちも、これまでのリチャートの戦い方を思い出すしかなかった。彼ら自身が獅子心王と呼んだのだから。

そこで彼らも、「講和を結ぶことに同意した」のだ。

リチャードとの交渉には、これまで通り、サラディンの弟、アラディ-ルが行くと決める。

 

 8月4日には、早速、12歳の息子を連れたアラディールがリチャードの許を訪れている。リチャードの方も、いかなる戦闘行為も強く禁じた。(だから安心して12歳の息子を連れて行けたのね)

 交渉が続いたある日、リチャードは少年にひざまづくよう命じた。少年は素直に従う。その前に立ったリチャードは、腰から剣を引き抜いた。

少年は一瞬、目をつむったが、すぐ目を開き、臆することなくリチャードを見上げた。リチャードはそのまま剣を少年の肩に降ろして言った。

 「騎士に叙す!」

それをイベリンが直ちにアラビア語に訳した。少年の顔に嬉しそうな笑いが広がった。

イスラム教徒の少年に騎士の叙任! 一神教的にはアベコベでも、クリスチャンでないのに教会で結婚式を挙げ、葬式は仏教の日本人には理解できる。

少年はリチャードから与えられた剣をその日、一日中抱えて離さなかった。父親のアラディールは微笑しながら、そんな息子を見ていただけだったという。

 そして、この12歳の少年こそ、これより37年後に始まる第六次十字軍で、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世との間に別名、「無血の十字軍」と呼ばれることになる講和を結んだ人なのだ。(環境と親たちの教育はとても大事ですね!)

...というわけで、少年の名を覚えておこうではないですか。

そのときのスルタンの名が、アル・カミ―ル天才排出した14~16世紀イタリア ルネサンスと時代錯誤の法王&修道士

注:過去に、上記の記事(中央辺り)にて、フリードリッヒとアル・カミ―ルについても少し触れております。

 

最後に二人の間で決められた講和の内容について~

講和の第一条:聖都 イエルサレムは、イスラム側に属することを認める。ただし、イスラム側はここを訪れるキリスト教徒の巡礼たちの安全と自由を保障する。

第二条:ティロスからヤッファまでとその周辺一帯の地が、十字軍側に属することを認める。(アッコン、ハイファ、カエサリア、アルスーフ、ヤッファ、いずれも地中海に面した海洋都市。)

これにキプロスも加わる。

第三条:これら十字軍側と認められた地域では、どこでもイスラム教徒の自由な行き来を認める。同時に経済交流を目的とするキリスト教徒のイスラム領内での自由な往来と活動も完全に自由。講和は陸のみならず、海上にも及ぶ。そのため、講和はヴェネツィア共和国などのイタリア海洋都市国家にとっては、更なる市場の拡大を意味していた。

賠償金とか身代金の話は双方ともの口から出ず、お互いの捕虜たちも殆どが無償で釈放された。

 

ちなみにウエストミンスター議事堂の脇に立つリチャード像を制作したのは、イタリア人のカルロ・マロケッティ。19世紀後半のヨーロッパでは、相当に名高い彫刻家だったらしい。

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十字軍の物語 3⃣ イベリンとサラディンの弟、アラディ-ル

2021-08-15 20:01:17 | 読書

 母国からの悪い知らせ

 リチャードがパレスティーナへ来て2年目の1192年春。イェレサレム奪還へ向けての第一歩を踏み出す筈だったリチャードに、本国から悪い知らせが届く。ヘルフォード修道院長が到着し、手渡した手紙には次のように記されていた。

 「リチャードの末弟ジョンを前面に立てたフランス王の軍が、ノルマンディー地方だけでなくイギリスにまで侵攻しつつあり、ヨーロッパに残っているリチャードの軍は苦戦に苦戦を重ね、一日も早いリチャードの帰国に望みを託すしかなくなった」

 (元々計算高いフランス王でねぇ...邪魔者or 競争相手が皆、十字軍遠征へ行ったら嬉しい~\(^o^)/というフランス王だったからさ... 独り言)

 右手に剣、左手には

 リチャードは一日も早くイギリスへ戻りたかった。

とはいえ、エジプトからの補給路を断ったことで、軍事的にはサラディンを追い詰めている。この機を利用して、つまり十字軍に有利な状態でサラディンと講和を結びたかった。何故ならそれがリチャードの帰国を許すことになるからであった。

 この交渉を託されたのは、バリアーノ・イベリン。イェルサレムの無血開城で、サラディン、更には彼の弟と面識がある、あの男ですよ! イベリンはそういう訳で、サラディンと弟のアラディ-ルからも好感を持たれ、気に入られていた。交渉役は、アラブ語も堪能な彼をおいて他にいなかったのである。

 サラディンは、リチャードとの交渉再開に同意した。その条件として、アスカロンの譲歩を求めた。これに対し、リチャードは「断じてノー!」 右手に剣... そう、軍をイェレサレムまで15キロの距離まで進軍させる。

 この間、兄に命じられ、大守たちの戦場復帰を伝えるためシリアへ行っていたアラディ-ルがイェルサレムへ戻る途中、出会った相手がイベリンだった。二人が協議し、イベリンがリチャードへ持ち帰った条件は、アスカロンの譲歩から、「破壊」、つまり、譲歩しなくても良いが、しばらくは誰も住めない土地とすること、と、緩められていた。

 これを交渉の前途は明るいと判断したリチャードは、左手には... そう、交渉により、軍勢を50キロのラムラまで後退させている。

 十字軍時代のイスラムにも、導師(イマム)と呼ばれる原理主義者はいた。彼らの影響力は現代同様で、スルタンのサラディンには、この「導師」たちから非難を浴びる講和は結べない立場にあった。一方のリチャードが、異教徒への敵対心に燃える修道僧や法王に囲まれていなかったこととは大きな違いだった。

 サラディンには、リチャードが求めるイェルサレムの返還などは、受け入れられない条件だった。

 とはいえ、サラディン、アラディ-ルとリチャード、イベリンは、異教徒同士でもフィーリングが合う仲ではある。

 ある時、リチャードのもとを訪れたアラディ-ルに言った。

「あなたの宗教では、男は何人も妻を持てるそうではないか。私の妹(未亡人となったていた)を妻に迎えてはどうかね? そうすれば、イェルサレムの王位に就ける。我々の間を隔てている問題が一気に解決すると言う訳だ」

アラディ-ルは笑った。この話を弟から聞いたサラディンも大笑いした。 だが笑わなかったのは、リチャードの妹、ジョアンナだ。私にイスラムの王へ嫁げというのか?と。そこで路線変更。「姪と結婚するのはどうかね? 妹はシチリアの王妃だったから、ローマ法王の許しがいるが、姪は独身だから、その点の心配は無用だ。」

ここまで読んで、ジョークではなく、リチャードは本気だったのか!と驚いてしまうが、アラディ-ルは呆れたという。だがサラディンは今回も大笑いしたという。

 

 交渉のかなめであるイェルサレムを返す、返さない、という交渉は続けられたが進展せず、リチャードは飽きてしまう。交渉は中断。

 対決;第二戦 ヤッファ

 がんばり続けたのはリチャード側で、軍を撤退したのはサラディンだった。

それでいながらリチャードは、イベリンに手紙を持たせ、サラディンの許へ送っている。

「…略。

 あなたが私と講和を締結すれば、私の望みである帰国も実現することになる。

だが反対に、もしあなたが戦闘を続けるなら、わたしはこの地に陣幕を打ち立て、この地をわたしの永久の住まいにするしかなくなる。

 われわれ二人の間で一日も早く講和を締結しようではないか。そうなれば私も発っていくことができる。あなたには、心からの別れを送りながら」

 

 率直すぎる手紙を受け取ったサラディンは、直ちに大守を招集させる。

「リチャードとの間に講和を結ぶことにした」と告げた。

 

 次回は、「講和に向けて」です~ 大河ドラマの時間ですので。

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十字軍物語3⃣ サラディン VS リチャード 

2021-08-15 18:06:31 | 読書

 キプロス島

 イギリスの獅子心王リチャードは、まずキプロス島に上陸。そこを制圧する。地中海ではシチリア、サルデーニャ、クレタ島に次ぐ広さを持つ島で、戦略的・経済的価値ある島だった。それまではビサンチン帝国領だったが、当時のビサンチンはギリシア正教であり、カトリックではない。リチャードによって、キプロスがカトリックの島となったことが十字軍側にとっては大きかった。

 アッコン入り

 1191年、リチャードは十字軍の聖地となっていたアッコンに派手なパフォーマンスで到着。

「私の命令に従って闘ってくれるのであれば、出征地別も民族別も前歴も一切、問わない」

イギリス王から兵士への贈り物には、上記の言葉が添えられていた。(カエサルを思い出しますね)

 将校たちによる大歓声で、イスラム側も何事か?と気付いたらしい。十字軍側の記録には、「イスラム側はイギリス王の到着を知り、震えあがった」とあるらしいが、それまで西ヨーロッパからやってくる人々を総じて「フランク人」と呼んでいたイスラム教徒にとっては、「イギリス人とは何ぞや?」であり、そもそも知らないのだから、震えあがる訳もない。

 リチャード VS サラディン

 ここから先は、言わずもがなリチャート対サラディンの攻防となる。攻めるは若き34歳イギリス王リチャード。守るは53歳に差し掛かったサラディン。

 ティロスの攻防では、サラディンはさっと軍を引く。アッコンでも、リチャード優位でことは進み、とうとう十字軍の手に落ちた。だが、サラディンはリチャードの出方を見るため、アッコンではさっとは軍を引かなかった。

 その後も続く攻防の内、1つを記しておくと...

 …

 ...

 アルスーフの戦闘

 🐴を狙って攻めた結果、戦闘後は戦いに倒れた馬の屍(しかばね)の山が出来たという! サラディンが 「騎兵ではなく、🐴を狙え」と弓矢隊に命じていたからだ。

 だが、地の利のサラディンの計画通り、リチャードの兵は林の中へ逃げ込むこともなく、結果的には諦めが早いイスラム兵の方が逃げ出したのだった。

 アルスーフの町は戦闘後、リチャードが全軍に「馬を殺された騎士には無料で配る。殺された馬の肉は、平等に配ること!」と布告。 というのも、歩兵は馬がなく、🐴の肉を食うには、お金を払うしかなかったから。

 こういう訳で、戦闘後の町のあちらこちらでは、バーベキューの香りと煙が立ち込め、大宴会となったのだった。南欧の人間は魚も食べるが、北欧や西では「肉を食べなきゃ力がでない!」という男たち。宴会は多いに盛り上がった。

 その同じ日の夜、サラディンは、逃走した兵士たちを𠮟りつけている。「スルタンの命なしに、逃げ出すとは、何事か!」

いけいけドンドンの時は勢いがあるイスラム兵も、負けがこんできたと思うと一気に諦めるようなのですが?

 ただ、アレッポの大守だけはサラディンに言う。

「スルタンの非難は妥当ではありません。彼らの甲冑は矢も通さず、それより何より手強かったのは、一人の騎士の戦いぶりです。🦁獅子の化身かと思わせる騎士一人に、どれだけの数の我々の兵がやられたか。この騎士こそが戦闘の行方を決したと言ってよい。兵士達は、メレク・リチャードと呼び掛けていましたが」

 この時以来、リチャードは イスラム教徒から「獅子心王」と呼ばれるようになる。海軍を持たないサラディンが、海上で負けるのならともかく、得意とする陸上で敗れたのだから。

イギリスの獅子心王 リチャード

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十字軍物語 3⃣ 獅子心王(ライオン・ハート)リチャード登場...とその前に赤ひげ皇帝

2021-08-15 14:32:20 | 読書

 前回、「イスラム教徒は町ごと虐殺されたのだから、同じ目に合わせるべきだ!」という狂信的な意見に、イスラムのスルタン、サラディンは耳もかさず、キリスト教住民は全員無事にイェレサレムを跡にした…めでたし、めでたし、という場面で終わりました。ここまでが第2次十字軍。詳しくは、こちら↓↓

十字軍物語 2⃣ 後半 ~寛大だったイスラム側~

ここから塩野七生さん著:『十字軍の物語 3⃣巻』へ突入します。いよいよ最後の1冊です。しかし、ハードカバー製本で文字も小さく、500ページ近くもある長編! そこで、ブログでは数回に分けることにします。

第ニ次十字軍はイスラム教側が”フランク人”と総称して西ヨーロッパからやってくる民を呼んでいた通り、フランスが主流でした。

第三次十字軍は、フランスに変わり、イギリスが主導することになります。(フランス王フィリップ等、関与していますが)ヘンリー二世に反旗を翻した息子、(この辺については、ここでは省きます)リチャード一世、しかも「ライオンの心を持つ騎士、そのものだ!」と賞賛され、獅子心と尊敬の念を込めてイスラム側から呼ばれたリチャードが歴史に登場です。中世の騎士として、今も人気がある一人だそうで、銅像をみても、勇ましさが伝わってきます。

 

前回まで読み、すっかりイスラムのサラディンファンになった私ですが、🦁獅子心王、リチャードも、なかなか...大した器の持ち主です。

「折角、寛大なサラディンによって、新たな戦いと憎しみを生み出さない形で、講和が結ばれ、平和が訪れたのに、第三次十字軍かよ...

と、正直、3⃣巻のページを開く前は、うんざり気味でした。

ところが... 全く予期せぬ形で、第三次十字軍は終結したのでした!

 

結論を先に書いてしまいましたが、これは欧米式。

イギリス、とくれば、ドイツについても、ちょっこし触れておきます

ドイツ皇帝赤ひげ

中東に平和が訪れたとはいえ、サラディンが最も恐れていたのは、ドイツ皇帝、赤ひげの進軍でした。このドイツ王、いかにもドイツ人的で、真面目というか、事前にサラディンへ、「今から行くぞ!」という内容の信書を送っているのです。その内容が笑える...

「これから率いて行くのは大軍であるから、いかなる抵抗も無駄!キリストの名のもとにイェルサレムを取り返す」

(ちょっと、ちょっとぉ、取り返すって、もともと中東のものでしょうが!と、突っ込みたくなるわ

これに対し、サラディンも、返書を送っているから凄い。

「我々の地に侵攻してきたのは、キリスト教徒の方であった」

と、はっきり言う。そうだ! その通りじゃないかい!

その後も、赤子に言い聞かせるように、分かりやすく説明しているのです。;今はキリスト教徒もイスラム教徒も安全に巡礼出来るようになったではないか、もし、われわれとの間に平和を望むのであれば、その可能性は充分にある、と。

この返書に目を通したあとでも、戦闘でことを決するというのであれば、受けて立つ、と。

サラディン、冷静、かつ大人な対応ですね。

 

しかし、赤ひげ皇帝は、進軍し続け... そうこうする内に、アレクサンダー大王も攻めあぐねたティロス島での攻防が! 赤ひげ皇帝とは関係ない場所にて始まってしまうのです。『赤ひげの動向』が気になって仕方がなかったサラディン。そんな中、臨時ニュース速報が彼の元に届いたのでした。

「赤ひげ皇帝、川で行水中に、溺れて死す!」

これには、サラディンも、信じられない想いで、何度も複数の使者を送り、事実かどうか、確かめさせたらしいのです。

足を滑らせた皇帝が、重い甲冑で起き上がれず、溺れ死んだ、という当時のドイツの発表は、どうも違うようで、現代の歴史家は、

「裸になって若い兵たちと一緒に、川で水浴びしようと飛び込んだところ、水温が低く、当時としてはご高齢だったため、心臓発作だったのだろう」、ということになっているとか。

ドイツ皇帝の死をもって、ドイツ軍は空中分解してしまったのだそう。ドイツへ帰還するもの、そのまま十字軍として残るもの、様々だったらしい。ドイツ兵達が忠誠を誓ったのは「赤ひげ皇帝」であり、次の皇帝が誰になるかも分からない状況では、致し方なかったのですね。

 

ちょっこし、どころか、結構な量を書いてしまった(;^_^A

一息、つきたいので、一旦、ここで✒を置きます。

 

 

 

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いつまでもショパン 中山七里

2021-08-14 22:14:44 | 読書

以前、紹介させて頂いた小説、📚おやすみラフマニノフ 中山七里 さよならドビュッシー 中山七里

そして今回は、いつまでもショパン

アニメ、ピアノの森 ...思い出します。

先の2作品の中でも大活躍した、非常勤ピアノ講師の岬先生がショパンコンクールに出場するんですよ🎵

ショパンの生まれ故郷、ポーランド出身のヤンは、ポーランド期待の星!

彼はポーランドのショパンに拘り、(古典的解釈で、落ち着いた演奏)

ロシア出身者は、ロシアのショパンを~ (ピアノ解釈と表現が大げさ)

米国人は、米国のショパンを~ (明るい雰囲気 イエーイ

日本人は楽譜に忠実に、ロボットが弾いているように...って、これはあんまりでしょ? いや、あながち、当たっているのかも?? 海外では、そう思われているのかもしれませんが。

もう一人、盲目のピアニストも日本から出場します。この登場人物のモデルは勿論...

Nobuyuki Tsujii plays Chopin's Ballade No.1 in G minor, Op.23

作品中に登場する楽曲にすべきだろうと、色々、迷いはしたのですが...

結局は、自分が一番好きなバラード1番にしました。\(^o^)/

演奏者は、勿論、辻井伸行さんです。

 

小説では、”事件” ”テロ” 多発!

死者も多く、辛くなる場面もあります。

それでも、優勝者は? 事件を解く鍵は? 

難聴を抱えてコンクールに臨む岬先生は、どのような演奏を?

最後の最後まで、分からないことだらけ~~~

ドビュッシーより専門用語が多く、な場面も多いかとは思いますが。

それでも充分、楽しめます。

何より、クラシックを聴いてみたくなりますよ。

 

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もののけ姫 アシタカせっ記

2021-08-14 06:34:43 | Electone & Piano

アシタカせっ記

今も断続的な☔。

全国的に河川の増水など被害が拡大している様子をTVでずっとみていましたが、夜21時に始まったジブリ映画、『もののけ姫』を観ました。

久石譲氏の音楽も好きで、『アシタカせっき』を演奏したことはあったのですが、映画はこれまでに一度も見たことが無かったのです。

オリンピックのあと、明るいニュースが殆どなく、こんな時だからこそ気分転換☆彡

NHKの戦争ドラマも気にはなったのですが...

映画開始直後、『アシタカせっき』が流れ、最後のシーンでも再び...

自然を我が物とする人間の傲慢さ

共存する道はないのか?

想像した通りのテーマでしたが、この映画の中で描かれている長年に渡る人間の欲が、地球温暖化を招き、結果的に豪雨災害やスーパー台風、猛暑を招いている...

環境破壊は自分が物心ついた頃から、叫ばれていたことでしたが。

森林の奥深くまで、人間が進出していったことが、Covid‐19と人が接触することになってしまった訳で。

益々気分が重くなってしまった…

水は大切に 

お風呂は全員、時間をおかずに入ってしまう

余計なものは買わない

使わない家電・必要がないコンセントは抜いておく

プラスティック、段ボールなどリサイクルへ

出来ることは、子供の頃からやってきたものの...

 

連休2日目の今日も、当初、予定していた高校野球観戦は雨で延期(16日)

自分が仕事へ戻る日なので、九州勢が登場する日は朝から夕方まで仕事で、見れない... 残念ですが、それよりも被害が最小限で済むことを祈るばかりです。

 

本日は、本を読んで、出来ればピアノかエレクトーンを弾いて過ごそうと思います。

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大雨と課外授業

2021-08-13 10:23:48 | Weblog

 ずっと降り続く雨。夜中の豪雨は真っ暗なだけに怖くなりました。家が高台に建っているので、土砂災害や水の被害は無いだろうと...

(屋根の排水溝に🍃が詰まり、一気に窓側にドッと雨が滝のように流れ、障子と床が水浸し…ということは、過去に一度、ありましたが💦)

 それでも、ただならぬ降り方には、恐怖を感じます。今は止んでいますが、天気予報は一週間雨。今後更に降ると、被害が拡大しそうで...お盆なので、黙祷…

 もう一つ、心配なのは、デルタ株の爆発的な感染拡大です。福岡県は、700人~800人を超え、一旦、500以下になったと思ったら、昨日は一気に1000人を超え、北九州市内も128人と、市内だけで3桁。 野々村真さんは、7月下旬に感染。8月上旬にワクチン接種予定だったと、ネットニュースで読みましたが、私も一週間後に2回目のワクチン接種を控えております。重症化するのは自分と同世代が多く、2回接種した人も亡くなられたというニュースも... 

 PCしか持っていない私は”隙間時間”が利用できず、なかなかYoutubeまで覗く時間が持てなかったのですが、今朝、久々にYoutube動画を見てみました~ 投稿者の皆さんの歌や演奏に元気頂きました

 音楽、最高~👏👏👏

 まだ完成していない、レッスン途中の状態で撮影...

昨日は、いつも通り仕事へ~(8時からの勤務)

夕方迎えに来てもらった父の🚙にて職場から真っすぐ帰宅。

雨の日は特に助かります👍 混雑する電車バスには乗りたくないし。

18時半から、ECCジュニアのレッスン...ですが、3週間の夏休み中。いつもの英会話レッスンではなく、夏休みなので、「新聞ちぎり絵」をしました~

新聞と絵手紙用のハガキは、事前に生徒さん宅のポストへ。

当日までに、うちわを準備して頂きました。(百均に売っています)

レッスン開始時間前に、

「先生、準備出来ました!いつでも始めてOKです💕」

だったかな。そのまんまの文章ではないけれど...私より先にログインし、待機していたようです。

なので、ちょっと早めにスタート。

❶小筆と水を準備してもらい、水をつけて、新聞の裏側からなぞる。

❷ちぎり絵なので、ハサミは使用せず、水で濡らした線にそって、手でちぎる。簡単にできます。

❸乾いたら、のりで貼りつけて完成☆彡

レッスン時間を過ぎたので、一旦、「では、また来週 Good bye」と、終了したのですが、その後、

「のりで貼り終わりました!」

というメッセージがっ!👀

なので、再び、繋げて見せてもらいました~

美味しそうな🍇のうちわと、🍉の絵手紙が見事に完成していました👍

私も、あとで完成させます。あの後、夕食へ~ と言う訳で、まだノリで貼っていない... 実際、生徒さんたちの方が凄いのです。

 

一度、終わったと思っていたノウゼンカズラですが、再び咲き始めました。

(花が終わった枝を少しカットすると...)

昨日の朝、6時頃に撮影。まだ周囲は薄暗いです。☔の影響もあるか...

 

本日から3日間、お盆休みです。コロナ禍で大分県へも熊本県へも行けず、(お墓参りも出来ず)自宅で手を合わせました。

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