旧海軍司令部壕で開かれた慰霊祭=6月13日午後、沖縄県豊見城市
太平洋戦争末期の沖縄戦で、沖縄県民に特別な配慮を求める異例の電文を海軍次官に送った海軍の大田実司令官ら幹部の自決から
78年となった6月13日(月)豊見城市の旧司令部壕で慰霊祭が営まれた。
参加した遺族や関係者ら約120人が黙とうし、花を手向けた。
大田司令官は1945年6月6日、米軍の猛攻下で県民の惨状を見過ごせないとして「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電。
1週間後、将校らと命を絶った。
司令部壕では約4千人が命を落としたとされている。
参列した大田司令官の孫、大田聡さん(62)=広島市=は「沖縄が二度と戦地にならないようにしていただきたい」と話した。
「大田 實中将の顕彰碑及びご家族のご紹介」(顕彰碑・ご家族のお写真はHPより頂きました)
ご自宅前の大田實中将の顕彰碑
昭和48年6月千葉県長柄町高山にある生家の長屋門入り口左側に有志により顕彰碑が建てられています。
太平洋戦争末期の沖縄戦で自決した海軍部隊司令官、大田實中将の命日にあたる6月13日、長柄町高山の生家の顕彰碑前では毎年慰霊と供養の集いが行われておりますことが報道されております。
千葉県民の一員として大田 實中将の命日にあたる6月13日には毎年、合掌を捧げております。
下記の は2006年(平成18年)11月23日~25日 千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して の折に撮影した写真です。
海軍慰霊塔 大田中将自決の部屋(平成18年慰霊の折に撮影。現在は撮影不可と)
司令官室の壁面には 「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と大田中将の歌が鮮やかに残されていました。
昭和20年6月6日、決別電報と辞世の句を打電。
同日夜、沖縄県民の献身的な戦い振りを述べ、後世にわたる国の配慮を訴えた世界史上不朽の 電文「沖縄県民斯く戦へり」を打電。
6月13日幕僚6人とともに自決、54歳の仁愛と波乱に満ちた生涯を終える。
辞 世 身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は、平成18年には撮影出来ましたが、現在は近くまで行かれず、撮影も不可と聞いております。
平成18年千葉県南方諸地域慰霊祭に参列の折りに、バスガイドさんが「千葉県の方に足を向けて眠れません。」とお話下さいましたことが思い出されます。
千葉県民の一人としても大切なお方を偲んで参りたく考えております。
この度の報道記事のご紹介に多くの皆様にお訪ね頂きましたことに御礼を申し上げまして保存させて頂きました。