日本海軍重巡洋艦「鳥海」が発見された。
沈没からちょうど75年、最後まで生まれたままの姿で戦った稀有な軍艦。
故ポール・アレン氏が設立した沈船捜索チームが、沈んでいる日本海軍重巡洋艦「鳥海」を発見した。「鳥海」の姿を日本時間の10月26日、米国時間の10月25日に公開した。
この米国時間の日付は、鳥海が沈没してからちょうど75年後に当たります。沈船捜索チームは鳥海を2019年5月5日に発見し、5月30日に今回公開した映像を撮影したと述べています。
捜索海域の詳細は明らかにしていませんが、深さ5173メートルの海底に船体を発見しています。周囲には300メートル離れて船首部分、左舷前方に艦載機射出用のカタパルトもありました。
「鳥海」(ちょうかい/てうかい)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦[3][4]。 高雄型重巡洋艦の4番艦[5][6][7]。 艦名は秋田・山形県境の鳥海山に由来する[8][9]。
艦内神社も鳥海山大物忌神社より分祀された[10]。
この名を持つ日本海軍の艦船としては摩耶型砲艦の鳥海に続いて2隻目[9][11]。なお、艦名は海上自衛隊のこんごう型護衛艦の4番艦「ちょうかい」に受け継がれている。
高雄型2隻(3番艦摩耶、4番艦鳥海)は書類上日本で竣工した最後の重巡洋艦(一等巡洋艦)最上型、利根型は軽巡洋艦(二等巡洋艦)として計画され喪失まで書類上の変更はなかったであった。
昭和19年10月25日「鳥海」はレイテ沖海戦に敵艦上機の攻撃を受けて沈没しました
最後の戦いとなったレイテ沖海戦では、1944年10月25日早朝に偶然遭遇した米海軍の護衛空母を基幹とした機動部隊との間に起きたサマール沖海戦で、敵艦上機の攻撃を受けて沈没します。
鳥海の生存者は駆逐艦「藤波」に救助されます(鳥海は藤波の雷撃で自沈処分)が、その藤波もその後消息を絶ちます。
米軍の記録や付近にいた日本軍の目撃証言から、藤波は10月27日に米軍機の攻撃を受けて沈没した可能性が高いとされています。
藤波の乗組員、そして藤波に救助された鳥海乗組員とも生存者はいません。そのため、鳥海の沈没における詳細は今も分かっていません。(以上はネットから頂きました)
私が聞いたところによりますと乗艦者名簿には960名とあり、鳥海沈没寸前に田中艦長をマストにくくり、他は藤波に救助されたそうです。
故に田中艦長さんのみ10月25日戦死。藤波に救助された父たちは10月27日戦死とされています。
この度の「鳥海発見」に田中艦長様のご子息様のお気持ちはいかばかりかとお遺骨がお還りになられますことを祈っております。
遺族新聞にも掲載されておりませんでしたので今まで知らずにおりましたが、
探検隊の皆様には感謝しております。
ネットには「お帰りなさい」「ゆっくりお休みください」などが寄せられております。
父たちは「藤波」移乗と聞いておりますので「鳥海」には田中艦長お一人が乗艦とされております。
お早うございます。
コメントを間違い、手違いで消してしまった、
大変失礼しました。
昨日の日経夕刊記事
遺骨、78年経て弟の元へ 南洋で戦死の兄
DNAで判明 「よう帰った」人柄伝えたい
南太平洋キリバスのタラワ環礁で見つかった遺骨が、DNA型鑑定で第2次大戦中の1943年11月に戦死した長崎県の野村正敏さん(当時23)と判明し、このほど長崎市で弟の貞之さん(92)に引き渡された。最後に見送ってから80年近くを経ての再会に、遺骨を胸に抱いた貞之さんは「ありがとう。よう帰ってきてくれた」と話し、涙を何度も拭った。
(参考記事)
、
ご心配をおかけいたしました。
それに致しましてもいつも構成が素晴らしいですね。
これからも楽しみに拝見させて頂きます。
ご遺骨がお帰りになりました事、ご家族のお喜びはいかばかりでしょうか。
長い間父は「鳥海」と共にと思っておりましたので、「鳥海発見」に複雑です。
船にくくられるとは・・・
壮絶な最期に日本海軍のすさまじさが
分かりました。
田中艦長さんのご子息様のお気持ちはいかばかりかと、近いうちにお電話しようと思っております。
ご遺骨はジャングルよりも綺麗では無いかと言われております。