世の中には
「/」
でつなぐことがふさわしい、二つの事項というものが存在する。
代表的なものは
ダダ/シュルレアリスム
だと、筆者は思う。
「/」
は
「スラッシュ」
と読む。
ダダイスム。
それは、第1次世界大戦中のスイス・チューリヒで生まれた、世界の文芸史上で初めての本格的な反芸術運動であり、既成の一切の道徳や規範、芸術に「ノン(否)」を投げつけた。
とにかく否定しろ!
というわけだ。
チューリヒのキャバレーボルテールでは夜な夜な、ナンセンスな詩の朗読や寸劇が繰り広げられた。
戦後、運動の中心はパリに移り、ハノーバーやニューヨーク、東京にも飛び火した。
しかし、運動としては短命であり、創始者のトリスタン・ツァラとともに運動をになったアンドレ・ブルトンらはツァラと離反し、シュルレアリスム運動を始める。
破壊と否定を掲げたダダの人々の多くはシュルレアリスムに移っていった。
だからこそ「ダダ」と「シュルレアリスム」はスラッシュでつながるのだ。
もっとも、むかし文芸誌「ユリイカ」が「ダダ/シュルレアリスム」の臨時増刊をくりかえし出していたので、筆者の脳裡にこの図式が刷り込まれてしまったのかもしれない。
話はややそれるが、20世紀の表現の歴史で、もうひとつ、この「/」がぴったりの事項がある。
パンク/ニューウエーブ
である。
一切の権威を激しく否定した点も、運動としては短命だった点も「ダダ」と「パンク」は似ている。
というわけで「ダダ」は、いつもシュルレアリスムとワンセットで、しかもシュルレアリスムの前史のように語られるのが常であった。
だが、そういう添え物扱いでいいのか?
「ダダ」は「ダダ」として単独で見るべきではないのか?
ツァラを、1910~20年代に一瞬文学史に浮上する存在ではなく、一個の詩人としてしっかりと読むべきではないか?
今回、日本語で初めて文庫本として出版されたツァラの本には、訳者の塚原史さんの熱い思いが込められているようだ。
巻末には詳細な解説がついている。
58ページにおよぶ「略伝」は、日本語でこれまで書かれたもっとも詳しいツァラ伝になっているという。
筆者も「ダダ以後」のツァラについてはまったくと言っていいほど知らなかった。彼は、対独レジスタンスに参加し、戦後はフランス共産党に入党し、ブルトンとともにアルジェリア独立戦争に反対する署名をしたりしている。
(なお若い人のために書いておくと、フランスとイタリアの共産党は戦後しばらくの間、かなり強力で、ピカソも入ったほどのポピュラーな存在だった。大戦中、対ファシズム・ナチス闘争を命がけでやったことを、国民が知っていたのである)
ところで、この本の
「あまりダダっぽくない(マジメな)マエガキ」
には、こうある。
この1センテンスに塚原さんのダダ観が集約されていると思う。
で、この「マエガキ」の書き出しがふるっている。
(笑)。
じつは、「ではない」とは言い切れない。
三面怪人ダダの命名者が成田亨なのかどうかはわからないが、ウルトラマンの怪獣には
「ブルトン」
というのも存在するのだ。
したがって、ウルトラマンのダダは、ダダイズムに由来すると考えるほうが自然であろう。
最後にいくつか、この本所収の「ダダ宣言1918」から、目についたことばをいくつか引用しておこう。
2010年8月30日発行、313ページ、760円。
ツァラ著、塚原史訳「ムッシュー・アンチピリンの宣言-ダダ宣言集」(光文社古典新訳文庫)
「/」
でつなぐことがふさわしい、二つの事項というものが存在する。
代表的なものは
ダダ/シュルレアリスム
だと、筆者は思う。
「/」
は
「スラッシュ」
と読む。
ダダイスム。
それは、第1次世界大戦中のスイス・チューリヒで生まれた、世界の文芸史上で初めての本格的な反芸術運動であり、既成の一切の道徳や規範、芸術に「ノン(否)」を投げつけた。
とにかく否定しろ!
というわけだ。
チューリヒのキャバレーボルテールでは夜な夜な、ナンセンスな詩の朗読や寸劇が繰り広げられた。
戦後、運動の中心はパリに移り、ハノーバーやニューヨーク、東京にも飛び火した。
しかし、運動としては短命であり、創始者のトリスタン・ツァラとともに運動をになったアンドレ・ブルトンらはツァラと離反し、シュルレアリスム運動を始める。
破壊と否定を掲げたダダの人々の多くはシュルレアリスムに移っていった。
だからこそ「ダダ」と「シュルレアリスム」はスラッシュでつながるのだ。
もっとも、むかし文芸誌「ユリイカ」が「ダダ/シュルレアリスム」の臨時増刊をくりかえし出していたので、筆者の脳裡にこの図式が刷り込まれてしまったのかもしれない。
話はややそれるが、20世紀の表現の歴史で、もうひとつ、この「/」がぴったりの事項がある。
パンク/ニューウエーブ
である。
一切の権威を激しく否定した点も、運動としては短命だった点も「ダダ」と「パンク」は似ている。
というわけで「ダダ」は、いつもシュルレアリスムとワンセットで、しかもシュルレアリスムの前史のように語られるのが常であった。
だが、そういう添え物扱いでいいのか?
「ダダ」は「ダダ」として単独で見るべきではないのか?
ツァラを、1910~20年代に一瞬文学史に浮上する存在ではなく、一個の詩人としてしっかりと読むべきではないか?
今回、日本語で初めて文庫本として出版されたツァラの本には、訳者の塚原史さんの熱い思いが込められているようだ。
巻末には詳細な解説がついている。
58ページにおよぶ「略伝」は、日本語でこれまで書かれたもっとも詳しいツァラ伝になっているという。
筆者も「ダダ以後」のツァラについてはまったくと言っていいほど知らなかった。彼は、対独レジスタンスに参加し、戦後はフランス共産党に入党し、ブルトンとともにアルジェリア独立戦争に反対する署名をしたりしている。
(なお若い人のために書いておくと、フランスとイタリアの共産党は戦後しばらくの間、かなり強力で、ピカソも入ったほどのポピュラーな存在だった。大戦中、対ファシズム・ナチス闘争を命がけでやったことを、国民が知っていたのである)
ところで、この本の
「あまりダダっぽくない(マジメな)マエガキ」
には、こうある。
「現代思想」が自己正当化のための大きな物語への不信というポストモダンの条件を前提とするなら、あるいは「現代アート」が不可解で意味不明な「作品」なしには成り立たないとするなら、そうした現代性の水源は、めぐりめぐってダダにさかのぼることになるからだ。
この1センテンスに塚原さんのダダ観が集約されていると思う。
で、この「マエガキ」の書き出しがふるっている。
ダダ、といっても『ウルトラマン』に登場する三面怪獣ではない。
(笑)。
じつは、「ではない」とは言い切れない。
三面怪人ダダの命名者が成田亨なのかどうかはわからないが、ウルトラマンの怪獣には
「ブルトン」
というのも存在するのだ。
したがって、ウルトラマンのダダは、ダダイズムに由来すると考えるほうが自然であろう。
最後にいくつか、この本所収の「ダダ宣言1918」から、目についたことばをいくつか引用しておこう。
おれは原則として宣言に反対だ。原則というやつにも反対しているように。
おれたちはどんな理論も認めない。キュビスムや未来派の学校は、もううんざりだ。あれは型にはまった観念の実験所にすぎない。
新しい画家は、世界の諸要素が手段でもあるようなひとつの世界を創造する。議論の余地のない、簡素で限定された作品を創造する。新しい芸術家は抗議する。彼はもう画かない(象徴的で錯覚を誘う現実の複製を作らない)。彼は石、木、鉄、錫から直接創造する。
おれはシステムに反対する。いちばん受け入れられるシステムは、原則としてどんなシステムももたないシステムだ。
芸術は私的なことがらなので、芸術家は自分のために芸術をつくる。わかりやすい作品など新聞記者たちの産物にすぎない。
誰もが叫べ。破壊と否定の大仕事をなしとげるのだ。
記憶の廃止、DADA。考古学の廃止、DADA。預言者の廃止、DADA。未来の廃止、DADA。
2010年8月30日発行、313ページ、760円。
ツァラ著、塚原史訳「ムッシュー・アンチピリンの宣言-ダダ宣言集」(光文社古典新訳文庫)