(承前)
題名のいくつかを訂正しました。申し訳ありません。
昨年12月からアップを続けてきた「中島ゼミ展ファイナル」もそろそろ大団円に近づいてきた。
総勢100人余りが出品している中で「個展」という扱いになっているのは、3人だけ。
ゼミを率いてきた中島義博教授、最初学生で後に教える側に回ったミカミイズミさん、そして卒業したばかりの田中咲さんである。
シルクスクリーンの版画やテキスタイルを学ぶ中島ゼミにあって田中さんは、もっぱら油彩に取り組んだ。
しかも、彼女の絵画には、感情がほとばしり出ている。
一見それは当たり前のことのようだが、この国の油絵の大半が
「いかに描くか」
をめぐって制作されていることを思えば、例外的なことなのだ。
冒頭画像は、中央が「帰り道」。
ふと思ったのだが、これだけ日常生活にとけ込んでいるにもかかわらず自動車はあまり絵のモチーフにならないし、たまに取り上げる人がいても、メカや車体のマニアであることが多いように思う。この「帰り道」のように、ささやかな感情を、自動車の絵に注ぎ込む画家は、意外と珍しいかもしれない。
右が「夢中」。
左は「中島先生といもむし(私)はなかよし」。
話を戻すと、彼女の絵はいずれも、愛憎をめぐる壮絶な物語というふうにまとめることができるだろう。
だから、それらが客観的にみて正しいかどうかとか、論理の筋道が通っているかとかは、二の次である。
具体的に言えば、彼女が愛情に飢えた幼少期をおくっていたのが事実かどうか、中島教授に寄せる感情がほんとうのものなのか等々は、検証する対象ではない。
画面に繰り広げられる感情の物語だけが、画面の表象を下支えしているのだ。
あるいは、その物語は、たとえば精神分析の理論をもってすれば、するすると読み解くことができるかもしれない(もちろん、その読解が「正しい」かどうかはまた別問題だし、そういう知的ツールを用いることがほんとうに絵画に接近することになっているのかどうかについてはいささか懐疑的になってしまう)。
これらの絵は「先生へ」という総題のもとに、一角にまとめられていた。
他の作品は次の通り。
「ぽこん」
「はいってくれるかな」
「ほそながいところにいます。」
「父の日」
「つれてって」
「かけおちしませんか 1」
「かけおちしませんか 2」
「かけおちしませんか 3」
ほかに題の附していない作品が6点。
こちらの壁面は、アクリル画の「貧乏子だくさんシリーズ」。
「昭和っぽい」というか、1950~60年代ぐらいの家庭を描いているようだが、若い田中さんがどうしてこんな絵を手がけているのか、不思議ではある。
「頭に梅干しを」
「お風呂の風景」
「お菓子の精」
「ちょん」
「ちっともさむくない!」
「おそらのともだち」
「ずっと」
「お仕置き部屋」
「えっさほいさ」
上の列中央の、犬を描いた絵は、題が附されていなかった。
他の作品の題も記録に残しておこう。
「お迎えに参りました。」
「悪魔交尾」
「無題」(8点)
「夢の話」
「本当はもう生きている意味もないのだけれど、貴方(貴女)がいるから生きています。」
「お部屋 I」
「お部屋 II」
「ファーザー・コンプレックス」
「アルビノ蝶と蛾の交尾」
「はんぶんちょ」
「パンの交尾」
「娘か女」
「自画像」
「しぼんでいく」
「いいでしょ」
「あげるよ」
「救われるような」
「異常なわたしは愛してくれる」
「無い」
「いる」
「あったかい手ちょうだい」
題の附されていない絵がもう1点。
さらに1階にも「樹胎 I」「樹胎 II」「戦争ごっこ」の3点が展示されていた。
2018年12月5日(水)~9日(日)午前10時~午後7時(最終日午後6時)
札幌市民ギャラリー(中央区南2東6)
□田中咲さんツイッター @me_rry__
関連記事へのリンク
■田中咲絵画展「春画展」 (2018)
■第6回有限会社ナカジプリンツ (2018年6月)
■10DAYS CINETOPIA + テンデイズ シネトピア プラス(2017年)
■第56回道都大学中島ゼミ展 版と型をめぐって 5つの個展と11人の冒険 (2016)
■田中咲個展「お部屋」 (2016)
■田中咲個展「いる」 (2015)
題名のいくつかを訂正しました。申し訳ありません。
昨年12月からアップを続けてきた「中島ゼミ展ファイナル」もそろそろ大団円に近づいてきた。
総勢100人余りが出品している中で「個展」という扱いになっているのは、3人だけ。
ゼミを率いてきた中島義博教授、最初学生で後に教える側に回ったミカミイズミさん、そして卒業したばかりの田中咲さんである。
シルクスクリーンの版画やテキスタイルを学ぶ中島ゼミにあって田中さんは、もっぱら油彩に取り組んだ。
しかも、彼女の絵画には、感情がほとばしり出ている。
一見それは当たり前のことのようだが、この国の油絵の大半が
「いかに描くか」
をめぐって制作されていることを思えば、例外的なことなのだ。
冒頭画像は、中央が「帰り道」。
ふと思ったのだが、これだけ日常生活にとけ込んでいるにもかかわらず自動車はあまり絵のモチーフにならないし、たまに取り上げる人がいても、メカや車体のマニアであることが多いように思う。この「帰り道」のように、ささやかな感情を、自動車の絵に注ぎ込む画家は、意外と珍しいかもしれない。
右が「夢中」。
左は「中島先生といもむし(私)はなかよし」。
話を戻すと、彼女の絵はいずれも、愛憎をめぐる壮絶な物語というふうにまとめることができるだろう。
だから、それらが客観的にみて正しいかどうかとか、論理の筋道が通っているかとかは、二の次である。
具体的に言えば、彼女が愛情に飢えた幼少期をおくっていたのが事実かどうか、中島教授に寄せる感情がほんとうのものなのか等々は、検証する対象ではない。
画面に繰り広げられる感情の物語だけが、画面の表象を下支えしているのだ。
あるいは、その物語は、たとえば精神分析の理論をもってすれば、するすると読み解くことができるかもしれない(もちろん、その読解が「正しい」かどうかはまた別問題だし、そういう知的ツールを用いることがほんとうに絵画に接近することになっているのかどうかについてはいささか懐疑的になってしまう)。
これらの絵は「先生へ」という総題のもとに、一角にまとめられていた。
他の作品は次の通り。
「ぽこん」
「はいってくれるかな」
「ほそながいところにいます。」
「父の日」
「つれてって」
「かけおちしませんか 1」
「かけおちしませんか 2」
「かけおちしませんか 3」
ほかに題の附していない作品が6点。
こちらの壁面は、アクリル画の「貧乏子だくさんシリーズ」。
「昭和っぽい」というか、1950~60年代ぐらいの家庭を描いているようだが、若い田中さんがどうしてこんな絵を手がけているのか、不思議ではある。
「頭に梅干しを」
「お風呂の風景」
「お菓子の精」
「ちょん」
「ちっともさむくない!」
「おそらのともだち」
「ずっと」
「お仕置き部屋」
「えっさほいさ」
上の列中央の、犬を描いた絵は、題が附されていなかった。
他の作品の題も記録に残しておこう。
「お迎えに参りました。」
「悪魔交尾」
「無題」(8点)
「夢の話」
「本当はもう生きている意味もないのだけれど、貴方(貴女)がいるから生きています。」
「お部屋 I」
「お部屋 II」
「ファーザー・コンプレックス」
「アルビノ蝶と蛾の交尾」
「はんぶんちょ」
「パンの交尾」
「娘か女」
「自画像」
「しぼんでいく」
「いいでしょ」
「あげるよ」
「救われるような」
「異常なわたしは愛してくれる」
「無い」
「いる」
「あったかい手ちょうだい」
題の附されていない絵がもう1点。
さらに1階にも「樹胎 I」「樹胎 II」「戦争ごっこ」の3点が展示されていた。
2018年12月5日(水)~9日(日)午前10時~午後7時(最終日午後6時)
札幌市民ギャラリー(中央区南2東6)
□田中咲さんツイッター @me_rry__
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■第56回道都大学中島ゼミ展 版と型をめぐって 5つの個展と11人の冒険 (2016)
■田中咲個展「お部屋」 (2016)
■田中咲個展「いる」 (2015)
(この項続く)