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北の創造者たち展-虚実皮膜・・その後 鈴木涼子展

2006年02月24日 00時06分53秒 | 展覧会の紹介-現代美術
 2003年に芸術の森美術館で開かれ、道内中堅の現代美術作家の水準の高さを見せた記念すべき展覧会となった「北の創造者たち 虚実皮膜」展。その出品者のうち、4人の「その後」を紹介する展覧会が、同館で開催中です。すでに、坂巻正美さんと上遠野(かとおの)敏さんの個展が終わり、現在は鈴木涼子さんの個展となっています。

 東京都写真美術館でのグループ展や上海ビエンナーレへの出品などめざましい活躍を続けている鈴木さんのこれまでの作品については、下記のリンク先をご覧いただくことにして、今回は、あっさりと。会場もわりと、あっさりした雰囲気だったので。

 今回は、昨年の個展で発表した「HOME LIGHT SERIES」ではなく、03年の「虚実皮膜」展で展開していた「ママドール」シリーズの続きといえそうな写真作品。
 会場左側には、西洋人の顔を二重写しにしたカラー作品がならび、正面と右側にはモノクロのヌード写真が展示されています。
 前者は、とくに解説がなかったので「ママドール」とおなじ方法論で制作されたものかどうか、つまり、母と娘のネガを重ね合わせてプリントされたものかどうかはわかりません。
 後者は、8つ切ほどの小さなものと、高さ2メートルを超える巨大なものとがあります。小さいほうには着衣の写真もあります。いずれにせよ、共通しているのは、横に人物が並んでいることです。男性のヌードは正面を向き(性器は自然なかたちで手で隠されている)、男女のヌードは背中を向いていますが、ふたりとも似たようなポーズをとっています。背景は白く飛んでいます。
 ひとりのヌードならありきたりですが、ふたりが対のポーズで立って(あるいはすわって)いるところに、作者の意図がかくされているのではないでしょうか。
 あまり断定的なことはいえませんが、わたしたちはひとりでは生きていけない、お互いに依存しあって暮らしている存在であることなどを、思わずにはおれません。
 うつくしいモデルなどではない、中年の夫婦とおぼしき男女が背中を向けて立っている写真は、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「Two Virgins」の裏ジャケットを思わせますね。
 背中のしわに人生が刻まれています。

 2月14日-3月5日
 札幌芸術の森美術館(札幌市南区芸術の森2)

 このつぎは、伊藤隆介さんです。

□gaden.comのロングインタビュー
■05年の個展(画像あり)

■挿絵展(02年 画像あり)
■リレーション・夕張(02年)
■2002年の札幌美術展
■01年の個展(画像あり


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2 コメント

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鈴木涼子的表現世界について (T.nakamura)
2006-02-26 01:05:28
芸森美術館の「鈴木涼子展」の会場は真四角の空間である。一辺が10メートルもあるだろうか。



三面の壁面に、透明なアクリルの板を支持体とした写真が12点展示してある。モノクロームの作品が7点。カラーの作品が5点。全体のタイトルも、個々の作品のタイトルも、一切、つけられていない。



モノクロームのシリーズは二つの壁面を使っていて、被写体になっているのは、日本人であり、しかも素裸の人体である。それは一人の裸体ではなくて、どの作品も、二人の裸体が並んでいる。そして、その二人の関係性が微妙に違っているのだ。①二人の中年の男性の裸体。②老年の二人の(多分、夫婦であるらしい)男女の裸体。③老年の二人の(多分、兄弟であるらしい)男性の裸体。



三つ目の壁面のカラーのシリーズは外国人の顔だけを正面からとらえている。年齢が著しく異なる女性(老年・中年・青年)の顔が4点、男性(幼児)の顔が1点。それらの顔はデジタル処理されているらしくて、よくよく注意して見ると、顔の輪郭線が二重に写って見える。



時計回りと反対に見ていく。第一の壁面には、モノクロームの作品が4点、展示されている。サイズが縦200センチ×横110センチの大きなモノクロームの作品とサイズが25×25センチの小さな作品が交互に組みになって並んでいる。(作品番号を並んだ順につけることにする。)



①等身大の二人の男性の裸体がほぼ左右対称の形で立っている。顔だけはこちらの方を向いているが、内側の脚の方が半歩だけ前に出されていて、全身は斜め外側の方向に向けられている。外側の腕の方は自然に垂れ下げられているが、内側の腕は軽く曲げられ、掌が性器の前あたりで固定されている。あたかも、外的脅威から身を守る態勢であるかのように。二人の体型はほぼ相似形をなしている。二人の顔を見比べると、まったく違った人格であると分かる。右側の男性、左手で性器を隠している男性は私の知人であるYさんではないか。ちょっと、吃驚する。背景にあるのは消えかかっているレースのカーテンの襞々のあわい輪郭だけである。背景にあるのはただ拡散する光線のみである。彼らの社会的属性を物語るものはすっかり消えうせている。彼らのアイデンティティを示すものさえ、ひとかけらも、存在していない。ただ剥き出しになった無防備な身体だけが残されている。何と、壊れやすく、傷つきやすいものなのか。カメラのレンズの無機質の眼は無慈悲にその事実を暴きだしている。



②小さなサイズの写真では、ワイシャツ、ズボン姿の先の二人の男性が外向きに立っている。視線も外を向いている。



③大きなサイズの写真で、背景は①と同じであるが、老年に達している裸体の男女が、左側に男性が、右側に女性が、背中をこちらに向けて、脚は軽く開いて、立っている。女性の方が男性より少しだけ背が低い。からだの背中側の表面に刻みつけられた無数の線は彼らの人生そのものを語っている。年齢相応にからだの線が崩れている。肩の線、腰の線、尻のくびれの線、脚や脹脛の線。どれもが違っているので、体型の細部の違いがありありと浮き彫りになっている。素裸のふたりは軽く手を握っている。ふたりとも、顔を少しだけ傾けて、眼鏡越しに、相手の眼をじっと見つめている。何かを確かめ合っているかのように。その何かとは、無意識の記憶に沈殿してしまったふたりの関係性の歴史であるのだろうか。否、それぞれの個体の、それぞれ独自なものである生そのものの重さであろうか。



④小さなサイズで、ふたりの男女が素裸のまま胡坐をかいて向き合っている。眼鏡は外している顔は、こちらの方を見ている。女性の方は右足を左の膝の辺りに載せている。その足裏を左の手が握っている。男性も同じポーズをとっているのか、よくわからない。



第二の壁面、すなわち出入り口の突き当たりになる壁面には、同じサイズのモノクロームの作品が3点並んでいる。サイズは90×90センチの正方形である。二人の裸体が写っているのだが、モチーフはまったく違っている。



⑤は③のヴァリエーションである。ヴァリアントはただ一点だけであって、それは顔の方向がまっすぐ向こう(無限遠)を向いている点にある。その他の点はまったく同じである。顔の表情がまったくわからない。



⑥二人の老年の男性の上半身の裸体が写っている。ほぼ同じ形の眼鏡をかけていて、顔の造作も、頭の禿具合から、鼻の穴の形まで、瓜二つと言っていいほど、よく似ている。でも、注意して見比べるなら、微妙に、細部において違っているのが見つかる。双子でないとしたら、兄弟である。あるいは、同一人物を眼鏡だけ違えて写したものを後で合成したものであるかもしれない。そこら辺りの真偽はよくわからないが、何しろ、二人はよく似ているのである。



⑦ムートンのような毛皮におおわれた長椅子の上に、二人の男性が裸体のまま坐っている。モデルは①の場合と同じである。二人のシンメトリーな位置関係もまったく同じである。ただし、外向きではなく、やや内向きに二人は坐っている。それぞれ、内側の方の腕を長椅子の背に凭せ掛けている。外側の方の腕は体側に沿ってゆるやかに曲げられ、手の先は反対側の腿の内側に添えられている。そのため、性器は自然と隠れてしまい、見ることはできない。視線は①とは違って、カメラの方を見ているのではなく、やや下方に向けられている。その眼の表情には何かしら疲労感のようなものが漂っている。(それはまったく別の感情かも知れぬ。)



第三の壁面には、60×60センチの正方形のサイズのカラー写真が5点並んでいる。どの写真も正面を向いている外国人の顔が写っている。特徴があるかというと、あまり、ない。⑧は中年の女性の顔。⑨は男児の顔。⑩は老年の女性の顔。⑪は若い女性の顔。⑫は若いのか、中年なのか、不分明な女性の顔。これは⑧の女性の顔に似ているが、なぜか、しっくりしない。顔の輪郭が曖昧なのである。これらの顔のモデルの関係性はまったく明らかにされていない。もしかすると、まったく無関係な人たちかもしれないし、あるいは同じファミリーに属している人たちなのかもしれない。それはよく分からない。ただここで言えることは、その無表情な顔から、私は何も読みとることができない。何かしら、その人の人格的なエレメントがそこから抹消されているような気がしてならない。



さて、これらの写真作品は果たしていかなるコンセプトのもとに制作されているのであろうか。



モノクロームのシリーズに仮にタイトルをつけるなら、「ツイン」あるいは「ペアー」であろうか。カラーのシリーズの場合は、「ダブル」あるいは「アイデンティティ」であろうか。



そして作品のサイズの違いから推測するならば、彼女の制作のモチーフが「ダブル」あるいは「アイデンティティ」から「ツイン」あるいは「ペアー」の方に移動しているということになるのだが。



彼女が表現行為を通して探し出したいと思っているのはある種肯定的な形では絶対に存在し得ないものであって、だからこそ、その不在の形を探り当てるために、彼女の眼から見て、純粋な形でのアイデンティティの存在にとって無関係で不純であると見なされる社会的歴史的属性をひとつひとつ見つけ出し、摘発し、抹消していくというプロセスが絶対的に必要になる。そのプロセスの不可欠な段階と局面がその時々の表現のモチーフとテーマとなってまっすぐせり上がってくる。



だとしたなら、彼女の表現形式における誰もが(勿論、彼女自身にも)予想のつかないメタモルフォーゼの軌跡が真に意味しているところを定義づけることはとても不可能である。
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Yさん (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2006-02-26 08:06:53
は、鈴木涼子さんの写真の師匠であり、「アニコラ」シリーズも彼がシャッターを押したものですから、モデルになったのもそういう背景があるのでしょう。



>そして作品のサイズの違いから推測するならば、彼女の制作のモチーフが「ダブル」あるいは「アイデンティティ」から「ツイン」あるいは「ペアー」の方に移動しているということになるのだが。



詳細な報告ありがとうございます。そして、このnakamuraさんのご指摘には同意します。

おそらく、まだメタモルフォーゼの途中なのではないかとわたしも思います。

まだ1度しか発表していない「ホーム・・・」シリーズとのかねあいもどうなるのか。気になるところです。
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