「構造社 昭和初期彫刻の鬼才たち」(札幌芸術の森美術館、1月15日まで。1月3日までと、9日休み)についての文章はこれがいちおう最後です。今回はまったくくだらない話なので、読み飛ばしていただいてけっこうです。
いちおう品位を重んじて(?)こういうタイトルにしましたけど、要は
「神津港人の絵はなぜエッチに感じるのか」
がテーマなのです。
裸婦像は、絵画の世界ではそれほど珍しくないけれど、これほど生々しいのはあまりありません。ハイパーリアルというのとも違います。
もちろん、絵によっては題材が風変わりなのが、理由として明らかです。
「夏(百合花)」は、草原で後ろ向きに座っている裸婦の左側に白い百合が咲いている様子を描いた絵ですが、女性の左手からはクモが糸を引いてぶら下がっています。
百合が純潔の象徴であることは知られていますが、クモがなにを表しているのかは、浅学非才の身ゆえ、わかりません。っていうか、気持ち悪いなー。
「生贄」はもっと変わっていて、正面を向いて立っている裸婦が挙げている両手の手首に鎖がはめられています。美術館に展示されているのでなかったら、SM小説の挿絵かと思っちゃうほどエロいです。ただし、描法はあくまで正統派のアカデミズムです。エロティシズムを狙った感じはありません。
でも、キリスト教関係の図像ではなさそうですし…
モデルがすべて日本人というのも理由かもしれません。
泰西名画の複製はもちろん西洋人がモデルだし、女性用下着の宣伝でもたいてい白人が起用されているのは日本人だと妙に生々しくなってしまうからだと思います。
神津の「渓流三女人」は、プロポーション以上に、足首の太さがいかにも日本人的です。
しかし、筆者が最大の理由だと思うのは-。
乳輪が大きくて色が濃い
ことではないでしょうか。
一見リアルで精緻に描かれているかのように見える泰西名画の裸婦にもお約束があって、たとえば陰毛が省略されているのはご存知かと思います。(約束といえば、少女マンガでは、乳首もふつう描かれませんね)
乳輪も、たとえばクラナッハ「ヴィーナス」、ゴヤ「裸のマハ」、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」、マネ「オランピア」といった有名な裸婦の絵では、ごく小さく、薄い色でしか描写されていないのです。ルノワールの大半の絵も同様です。
例外的にわりとちゃんと(?)ピンク色でかかれているのはアングル「トルコ風呂」。この絵がどこかヘンに感じられる理由は、常軌を逸した裸婦の数やどこか狂っている遠近法のほか、乳輪のリアルさにあるかもしれません。あと、デルヴォーの絵もしっかり乳輪が描かれていますが、彼の作品に登場する裸婦は陰毛も豊かで、伝統的な西洋の絵画とはわけて考えた方がよいと思います。
神津の出品作でわりと乳輪が小さめなのは「夏(いんこ鳥)」だけで、あとの「渓流三女人」「生贄」「豊饒」は、どれも濃い肉色で大きく描かれ、乳首も立体感があります。
…正月早々、しょうもない内容で、失礼しました。
このエントリは、コメントしづらいだろうなあ。
いちおう品位を重んじて(?)こういうタイトルにしましたけど、要は
「神津港人の絵はなぜエッチに感じるのか」
がテーマなのです。
裸婦像は、絵画の世界ではそれほど珍しくないけれど、これほど生々しいのはあまりありません。ハイパーリアルというのとも違います。
もちろん、絵によっては題材が風変わりなのが、理由として明らかです。
「夏(百合花)」は、草原で後ろ向きに座っている裸婦の左側に白い百合が咲いている様子を描いた絵ですが、女性の左手からはクモが糸を引いてぶら下がっています。
百合が純潔の象徴であることは知られていますが、クモがなにを表しているのかは、浅学非才の身ゆえ、わかりません。っていうか、気持ち悪いなー。
「生贄」はもっと変わっていて、正面を向いて立っている裸婦が挙げている両手の手首に鎖がはめられています。美術館に展示されているのでなかったら、SM小説の挿絵かと思っちゃうほどエロいです。ただし、描法はあくまで正統派のアカデミズムです。エロティシズムを狙った感じはありません。
でも、キリスト教関係の図像ではなさそうですし…
モデルがすべて日本人というのも理由かもしれません。
泰西名画の複製はもちろん西洋人がモデルだし、女性用下着の宣伝でもたいてい白人が起用されているのは日本人だと妙に生々しくなってしまうからだと思います。
神津の「渓流三女人」は、プロポーション以上に、足首の太さがいかにも日本人的です。
しかし、筆者が最大の理由だと思うのは-。
乳輪が大きくて色が濃い
ことではないでしょうか。
一見リアルで精緻に描かれているかのように見える泰西名画の裸婦にもお約束があって、たとえば陰毛が省略されているのはご存知かと思います。(約束といえば、少女マンガでは、乳首もふつう描かれませんね)
乳輪も、たとえばクラナッハ「ヴィーナス」、ゴヤ「裸のマハ」、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」、マネ「オランピア」といった有名な裸婦の絵では、ごく小さく、薄い色でしか描写されていないのです。ルノワールの大半の絵も同様です。
例外的にわりとちゃんと(?)ピンク色でかかれているのはアングル「トルコ風呂」。この絵がどこかヘンに感じられる理由は、常軌を逸した裸婦の数やどこか狂っている遠近法のほか、乳輪のリアルさにあるかもしれません。あと、デルヴォーの絵もしっかり乳輪が描かれていますが、彼の作品に登場する裸婦は陰毛も豊かで、伝統的な西洋の絵画とはわけて考えた方がよいと思います。
神津の出品作でわりと乳輪が小さめなのは「夏(いんこ鳥)」だけで、あとの「渓流三女人」「生贄」「豊饒」は、どれも濃い肉色で大きく描かれ、乳首も立体感があります。
…正月早々、しょうもない内容で、失礼しました。
このエントリは、コメントしづらいだろうなあ。
作家には自分の密やかな楽しみでかき、そっとしまっておく「裏絵」のようなものがあるのかもしれませんが、この絵もそんな感じで、本来作家の寝室の奥深くにあるべきものが、こんな公共の目にさらされて、いいのですかというやばい感でした。
お恥ずかしながら乳輪には注意がいかなかったのですが、妙にどしーんとした下半身、脚が印象に残りました。
スタイル抜群のスーパーモデルにあまりエロスを感じないのの逆に、垢抜けない体型にエロを感じました。
作家の個人的趣味も感じました。
いつかこのような裏っぽい作品を集めた展覧会みたいです。R指定になりますね。
>スタイル抜群のスーパーモデルにあまりエロスを感じないのの逆に、垢抜けない体型にエロを感じました。
なるほどなるほど。
ただ、たとえば池田満寿夫とかには、ほんとにヤバイ絵があるし、アポリネールにはエロ小説とかもありますけど、神津の絵は、そのへんを狙っているという感じも、わたしはあまり受けなかったんですよね。
ナゾです。