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■鷲見憲治展 (12月20日まで)

2009年12月20日 12時44分08秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 難解な長文ですが、よろしければ読んでください。むつかしい話がどうしてもいやな人は、後半の「で、」から読み始めてください。

 いま手元に本が見当たらないので正確な言い回しがわからないのだが、20世紀米国最大の美術評論家のひとりクレメント・グリーンバーグの批評文では、「ローカリティー(地方性)」というのは否定すべきもの、克服すべきものとしてとらえられていたように記憶している。いまにして思えばそれは、パリからニューヨークへと世界美術(史)の覇権を奪還するという文脈においては当然のアジェンダ設定であり、われこそに普遍性はあり-と宣言するためには必要な所与であったともいえるのだが、しかし、そういう文脈を離れてどんな場合でも地方性は否定されるべきなのだろうか?
 その一方で、さまざまな作風の作り手たちを、「北方の風土性」みたいな言葉に回収してしまおうという態度にもちょっとだけどしらける。その言葉が、自分たちは田舎に住んでいるから普遍性を獲得できないのだ-という無意識の正当化をはらみ、なおかつそれを自覚できていないのであれば、なおさらである。
 話を戻すと、北海道という二重の辺疆へんきょうに住んでいるわたしにとっての疑問は
「じゃ、或る作品が、地方的なものでなく、普遍的なものだということを担保するものってなにさ」
ということだ。早い話、その作家が住んでる場所だったり作品が生まれた土地だったり-ということなら「冗談じゃないぜ」って言い返したくなる。
 疑問はまだある。じゃ、パリやニューヨークや東京の作家は、あらかじめ地方性からまぬかれているの? どんな文脈でも地方性より普遍性のほうが上位に評価されるの?
 しかし、その作家にとって、普遍性よりも地方性のほうが、切実であるならば、どこに住んでいようとその地方性みたいなものを追究するのが、ほんとだろうと思う。たとえば、19世紀米国の大自然を描いたハドソンリバー派の画家にも、凡庸な者と、21世紀の北海道に住むわたしを感動させる絵を生んだ者とがいるように。

 ちょっとちがうけど、ドイツの文豪トーマス・マンの「自分を語ることが世界を語ることにつながる者、それが詩人(芸術家)だ」というのと、どこかで通底してるような気がする。

 で、北海道の北見に住むことし90歳の画家・鷲見すみ憲治さんである。
 北見は歴史の新しいマチで、鷲見憲治さんたちが、北見に登場した芸術家の最初の世代になる。
 その地で、現在にいたるまで、身近な風景を描いてきた。雪の北見駅前、自宅の果樹園、玉ネギ畑の収穫などさまざまだが、やはり代表的なのは、春先の流氷を題材にした一連の作品だ。
 
 画風は表現主義の影響を少し感じさせるおおらかなもので、絵はがき的な丹念さからは遠い。かつて道展会員だったが、どっちかというと全道展っぽいタッチのように思う。

 鷲見さんは戦前、札幌で国松登の講習会で学んだり、戦後上京して絵画展を見てボナールの影響を受けたりしているけれど、基本的には地元の風景を題材にしている。
 その意味では徹底的に「地方性」の画家だということができると思う。
 それは、鷲見さんが望んでいたことなのかどうかは、いまとなってはわからない。
 しかし、地元の人の視線で地元を描くことで、北見の人から愛される画家になったのではないだろうか。
 今回おどろいたのは、大作が多いわりに、「作家所蔵」が少なく、北網圏北見文化センターや北見のホテル、会社、官公庁などが所蔵している絵がかなりあることだ。これは、道内の他の画家ではみられない現象だ。

 オホーツクの冬は厳しく長い。
 春先の流氷は春を待ち望む人々の心にぴったりくるのではないか。そして、それは、北見以外に住んでいる人々にも、共通する心性ではないのか。
 地元性を突き詰めることによって或る種の普遍性を獲得する、そういう現象が、ここでも起きているような気がするのだ。
 


2009年11月11日(水)-12月20日(日)9:30-5:00(観覧券発売は-4:30)、月曜休み(祝日は開館し翌火曜休み)
北網圏ほくもうけん北見文化センター(北見市公園町1)



・北見駅前(旧きたみ東急百貨店)バスターミナルから北海道北見バスの三輪小泉線に乗り「大町」降車、徒歩7分(バスは日中15分間隔)
・JR北見駅から徒歩22分


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