「さびしいとき」
私がさびしいときに、 よその人は知らないの。
私がさびしいときに、 お友達は笑うの。
私がさびしいときに、 お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、 仏さまはさびしいの。
『金子みすゞ全集Ⅱ』より
仏さまの心は 智恵と慈悲であるという。
仏さまの智恵は、しばしばどんな固いものでも切り裂くダイヤモンドにたとえられる。
その智恵で仏さまは、私の愚かさを見抜き、智恵の人へと向かわせてくださるのである。
仏さまには、私たちのまちがいを正す厳しい一面があるが、もう一面、あたたかく私を抱きとってくださる一面がある。慈悲の心である。
それは、「同体の慈悲」ともいわれ、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」どうじの心である。
「観無量寿経」には「仏心とは、大慈悲これなり」と定義している。
慈悲の「慈」(maitri)とは「与楽」よらくの意味で、幸せの実現のために積極的に助けることをいい、父親の愛情にたとえられる。
それに対して「悲」(karuna)は「抜苦」ばっくのはたらきをもつといわれる。苦を癒すのは、「悲しみを同じくする」ことである。
仏さまは、このような愚かで罪ばかりつくっている私たちを抱きとって、決して捨てない(摂取不捨)せっしゅふしゃという。
「がんばれ、がんばれ」と励ますだけでなく、愚かなままでいい、だめなままでいい、生きているだけでいい、それを生んだのは私であると、いっしょに泣く母親の愛情である。
母親にあまえたい。話を聞いてほしい。「よかったね」といっしょによろこんでほしい。しかし、お母さんは いつもいそがしい。その不満をみすゞさんは詠う。
金子みすゞ いのちのうた・1上山大峻・外松太恵子著 JULA
昨日 この詩を習いました。
涙があふれ 詩がにじんで見えませんでした。
私がさびしいときに、 よその人は知らないの。
私がさびしいときに、 お友達は笑うの。
私がさびしいときに、 お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、 仏さまはさびしいの。
『金子みすゞ全集Ⅱ』より
仏さまの心は 智恵と慈悲であるという。
仏さまの智恵は、しばしばどんな固いものでも切り裂くダイヤモンドにたとえられる。
その智恵で仏さまは、私の愚かさを見抜き、智恵の人へと向かわせてくださるのである。
仏さまには、私たちのまちがいを正す厳しい一面があるが、もう一面、あたたかく私を抱きとってくださる一面がある。慈悲の心である。
それは、「同体の慈悲」ともいわれ、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」どうじの心である。
「観無量寿経」には「仏心とは、大慈悲これなり」と定義している。
慈悲の「慈」(maitri)とは「与楽」よらくの意味で、幸せの実現のために積極的に助けることをいい、父親の愛情にたとえられる。
それに対して「悲」(karuna)は「抜苦」ばっくのはたらきをもつといわれる。苦を癒すのは、「悲しみを同じくする」ことである。
仏さまは、このような愚かで罪ばかりつくっている私たちを抱きとって、決して捨てない(摂取不捨)せっしゅふしゃという。
「がんばれ、がんばれ」と励ますだけでなく、愚かなままでいい、だめなままでいい、生きているだけでいい、それを生んだのは私であると、いっしょに泣く母親の愛情である。
母親にあまえたい。話を聞いてほしい。「よかったね」といっしょによろこんでほしい。しかし、お母さんは いつもいそがしい。その不満をみすゞさんは詠う。
金子みすゞ いのちのうた・1上山大峻・外松太恵子著 JULA
昨日 この詩を習いました。
涙があふれ 詩がにじんで見えませんでした。