脱原発
2011-04-11 | 日記
今回、原発に関して色々なことが起こった。
悪い話は山ほどあるが良い話はあまり聞かない。
安全性、資本家のエゴ、政治との癒着など悪い話は他で書かれているのでこれ以上ボクが書く必要はないだろう。
良い点については、人々がエネルギーというものについて考える機会ができたことだ。
自分達が使っている電気がどこから来ているのか。それはどういう状態で作られているのか。それが破壊されれば自分達の生活にどういう影響を与えるか。などなど。
原発の事に関しては政府をはじめ電力会社などの本音はこうだろう。
『人々にあまり関心を持ってもらわずジャカジャカ電気を使ってもらい、電気が足りなくなるという理由で次から次へと原発を建てたい』
安全性という最大のネックについてはひた隠しにし、御用学者を巻き込んでとにかく安全です、の一点張り。
それが今回の件で明るみに出てしまった。
そういった影に隠されていた事が明るみに出たことにより、人々の意識が高まった。
ボクはもう何年も前から言っているが、「電気代がもったいなから節約するのか、電気がもったいないから節約するのか」この言葉の真の意味を考える時が来たのである。
人間というものは物事を失って初めて気が付くものだ。
病気にならないと健康のありがたさに気が付かないのと一緒だ。
今回は関東と東北で影響が出たが、他の地域では今まで通りの暮らしをしている人も多いはずだ。
そういった人達が、「自分には関係ない」と思うか「自分達も今、考えてみよう」と考えるかはその人次第だと思う。
デマも飛び交う。
「復興支援の為にも影響のない場所では電気を今まで通り使い続けるべきだ。」
そうか~?
必要な所では使えばよいよ。だが不必要な電気をジャカジャカ使うことが大切か?
それが本当に復興の支援になると考えるのならよっぽどおめでたい頭だ。
こういうことが外国で事故が起きたらどうだろう?
原発のある場所に住んでいる人は当然原発に反対するだろうが、エネルギーというものを考えるだろうか?ましてや原発から遠く離れた場所に住んでいる人は?
こうなると世間は一気に反原発のムードが高まる。
戦争があると反戦デモが起こるのと同じだ。
反原発なんてものは今に始まった物ではない。
うちの親父は何十年も原発の反対運動をしている。
ぼくの個人的な意見は、核をエネルギー源に使うことに反対である。それは間違った使い方であり、間違った方法は悪ではない。
前にも書いたが、核のエネルギーは基本的に破壊のものでそこから何かを作ることに無理があるのだ。無理があることをやっちゃいかん。
反原発の運動で気に入らないのは、原発=悪と決めつけることだ。
そんなこと言ったら可哀想じゃん、原発が。せっかく作られてきたのに。
可哀想じゃん、ウランが。地球上に存在する物質として。本来ならただそこに在るだけの物なのに。
可哀想じゃん、周りの植物や動物や魚や虫たちが。住む所が汚染されて。
可哀想じゃん、そこで一生懸命働く人が。
繰り返して言う。原子力は悪ではない。
正しい使い方と間違った使い方があるだけだ。
もう気が付いたでしょう。原発を人のいない場所に作ればいいって問題ではないのだよ。
だけどしゃあないやん。もう作っちゃったものは。
そう。だから今ある物はそのまま無事を祈りながら働いてもらって、その間に別のエネルギー源に注目するべきだ。
新しい原発をこれ以上作らずに、少しずつ減らしていっていずれはなくなるのが理想だ。
反原発ではなく脱原発である。
ボクは脱原発という言葉が気に入ってしまった。
脱原発の言葉の裏にはこれからのエネルギーを考えさせる要素があるからだ。
限りあるエネルギーを大切に使いながら、誰も不幸にならない新しい物に取り組んでいく。これが科学の在るべき姿だ。
庭でボーッとエネルギーの事を考えていた。秋の日差しが暖かい。
そう、ボクらには太陽がある。
これからはもっと太陽エネルギーの開発が進んでいくべきだ。
30年以上も前に宮崎駿は未来少年コナンで描いている。
ずばり太陽エネルギーの平和利用がテーマの話である。
このマンガこそ今見るべき物だ。
これを30年以上も前に描いたのだから、宮崎駿という人はスゴイ人だ。
「そんなこと、できない」と言った時点でその人の前からその世界は消える。
時間はかかるだろう。だができる。
出来ると信じれば出来る。
それをやるのは日本だ。だって日の本の国だよ。
世界で最初に核エネルギーの犠牲者になったのには、今回こういう地震があったのには、こういう意味がある。
日本がこれからやってくれることをボクは信じる。やると言ったらやる。
これからの地球を引っ張っていくのは日本だ。
「だって…」や「でもさあ…」は無い。
こうなればいいなあ、と思ったことは実現する。
大切なのは各自がやるべきことをやりながら、それを夢見ること。
夢物語とは馬鹿げた話というイメージがあるが、そうではない。
夢は繰り返し想うことでビジョンへ変わっていく。ビジョンが見えたらできるだけ細部までそれを想像する。
そしてその時が来たら、そうなるだけの話。
昔からの言葉で「段取り八分現場二分」というものがある。
仕事は段取りが8割方で残りの2割を現場でやれ、という言葉だが段取りの中にビジョンを見ることも含まれる。
競争は競い争うこと。共存共栄は共に在り共に栄えることだ。
競争社会から共存共栄の社会へ。
競い合いはあるが、争いのない世界。
それは僕らが夢を見て、作り上げていくものだ。
悪い話は山ほどあるが良い話はあまり聞かない。
安全性、資本家のエゴ、政治との癒着など悪い話は他で書かれているのでこれ以上ボクが書く必要はないだろう。
良い点については、人々がエネルギーというものについて考える機会ができたことだ。
自分達が使っている電気がどこから来ているのか。それはどういう状態で作られているのか。それが破壊されれば自分達の生活にどういう影響を与えるか。などなど。
原発の事に関しては政府をはじめ電力会社などの本音はこうだろう。
『人々にあまり関心を持ってもらわずジャカジャカ電気を使ってもらい、電気が足りなくなるという理由で次から次へと原発を建てたい』
安全性という最大のネックについてはひた隠しにし、御用学者を巻き込んでとにかく安全です、の一点張り。
それが今回の件で明るみに出てしまった。
そういった影に隠されていた事が明るみに出たことにより、人々の意識が高まった。
ボクはもう何年も前から言っているが、「電気代がもったいなから節約するのか、電気がもったいないから節約するのか」この言葉の真の意味を考える時が来たのである。
人間というものは物事を失って初めて気が付くものだ。
病気にならないと健康のありがたさに気が付かないのと一緒だ。
今回は関東と東北で影響が出たが、他の地域では今まで通りの暮らしをしている人も多いはずだ。
そういった人達が、「自分には関係ない」と思うか「自分達も今、考えてみよう」と考えるかはその人次第だと思う。
デマも飛び交う。
「復興支援の為にも影響のない場所では電気を今まで通り使い続けるべきだ。」
そうか~?
必要な所では使えばよいよ。だが不必要な電気をジャカジャカ使うことが大切か?
それが本当に復興の支援になると考えるのならよっぽどおめでたい頭だ。
こういうことが外国で事故が起きたらどうだろう?
原発のある場所に住んでいる人は当然原発に反対するだろうが、エネルギーというものを考えるだろうか?ましてや原発から遠く離れた場所に住んでいる人は?
こうなると世間は一気に反原発のムードが高まる。
戦争があると反戦デモが起こるのと同じだ。
反原発なんてものは今に始まった物ではない。
うちの親父は何十年も原発の反対運動をしている。
ぼくの個人的な意見は、核をエネルギー源に使うことに反対である。それは間違った使い方であり、間違った方法は悪ではない。
前にも書いたが、核のエネルギーは基本的に破壊のものでそこから何かを作ることに無理があるのだ。無理があることをやっちゃいかん。
反原発の運動で気に入らないのは、原発=悪と決めつけることだ。
そんなこと言ったら可哀想じゃん、原発が。せっかく作られてきたのに。
可哀想じゃん、ウランが。地球上に存在する物質として。本来ならただそこに在るだけの物なのに。
可哀想じゃん、周りの植物や動物や魚や虫たちが。住む所が汚染されて。
可哀想じゃん、そこで一生懸命働く人が。
繰り返して言う。原子力は悪ではない。
正しい使い方と間違った使い方があるだけだ。
もう気が付いたでしょう。原発を人のいない場所に作ればいいって問題ではないのだよ。
だけどしゃあないやん。もう作っちゃったものは。
そう。だから今ある物はそのまま無事を祈りながら働いてもらって、その間に別のエネルギー源に注目するべきだ。
新しい原発をこれ以上作らずに、少しずつ減らしていっていずれはなくなるのが理想だ。
反原発ではなく脱原発である。
ボクは脱原発という言葉が気に入ってしまった。
脱原発の言葉の裏にはこれからのエネルギーを考えさせる要素があるからだ。
限りあるエネルギーを大切に使いながら、誰も不幸にならない新しい物に取り組んでいく。これが科学の在るべき姿だ。
庭でボーッとエネルギーの事を考えていた。秋の日差しが暖かい。
そう、ボクらには太陽がある。
これからはもっと太陽エネルギーの開発が進んでいくべきだ。
30年以上も前に宮崎駿は未来少年コナンで描いている。
ずばり太陽エネルギーの平和利用がテーマの話である。
このマンガこそ今見るべき物だ。
これを30年以上も前に描いたのだから、宮崎駿という人はスゴイ人だ。
「そんなこと、できない」と言った時点でその人の前からその世界は消える。
時間はかかるだろう。だができる。
出来ると信じれば出来る。
それをやるのは日本だ。だって日の本の国だよ。
世界で最初に核エネルギーの犠牲者になったのには、今回こういう地震があったのには、こういう意味がある。
日本がこれからやってくれることをボクは信じる。やると言ったらやる。
これからの地球を引っ張っていくのは日本だ。
「だって…」や「でもさあ…」は無い。
こうなればいいなあ、と思ったことは実現する。
大切なのは各自がやるべきことをやりながら、それを夢見ること。
夢物語とは馬鹿げた話というイメージがあるが、そうではない。
夢は繰り返し想うことでビジョンへ変わっていく。ビジョンが見えたらできるだけ細部までそれを想像する。
そしてその時が来たら、そうなるだけの話。
昔からの言葉で「段取り八分現場二分」というものがある。
仕事は段取りが8割方で残りの2割を現場でやれ、という言葉だが段取りの中にビジョンを見ることも含まれる。
競争は競い争うこと。共存共栄は共に在り共に栄えることだ。
競争社会から共存共栄の社会へ。
競い合いはあるが、争いのない世界。
それは僕らが夢を見て、作り上げていくものだ。