自給半足
2011-04-26 | 日記
自給自足という言葉は英語ではself sufficient とかself sustainableというような言葉になる。
自分で充分に保つとか、持続可能な、というような意味合いである。
ボクも自給自足を夢見ているが、完全な自給自足というのは普通の生活をしている上では不可能だ。
それでも自分で食べる物を、使う物をできるだけ自分で作っていこうとは思っているが限界もある。
味噌を作ったのは数年前だったか。
糀を育てて味噌を仕込んで作った味噌は、そりゃ旨かったさ。
だけど手間もかかった。味噌作りより糀を作るのが面倒くさい。
作るならある程度まとまった量を作る方が良い。
そんなことを考えていたら友達のゴーティーがネルソンで味噌造りを始め販売するようになった。
ゴーティーは以前トレッキングガイドをやっていた人で本職の板前さんだ。
家で野菜も作っていて、ニワトリも飼っているし、石けんも作る。まあボクと似たようなことをやってるわけだ。
この人の作る物はなんでも旨い。
味噌はネルソン産の大豆とブレナム産の塩を使っている。もちろん旨い。
値段は市販の味噌の倍近い値段だが、それに値する価値はある。
安くはないが高くもないと思う。高いと思う人は買わなければよい。それだけだ。
なんと言っても出所の分かっている材料と作っている人の顔が分かるというのは、食品を買う上でとても大切なことだ。
中国で取れた豆を日本まで運び、製品にしてそれをニュージーランドまで持ってくる。これってグローバル?
それよりもニュージーランドで取れた豆と塩でニュージーランドで作られる味噌。それを食べればいいじゃん。
地産地消という言葉があるが、とても好きな言葉だ。
ボクは最近、物を買うときは多少高くてもできるだけニュージーランド産の物を買うようにしている。
テレビのコマーシャルでも「ニュージーランド産のモノを買いましょう」と言っている。自分の会社の商品名を連呼するだけが広告ではない。広告とはこうあるべきだ。
そして北島産より南島産。同じ物なら遠い所より近くで取れた物を。
エネルギーの無駄使いはできるだけ省く。
ボクはこの味噌を食べて思った。
ああ、もう味噌作りはやめよう。友達がこんなに旨い味噌を作るならそれを売って貰えばいいや。
その分の自分のエネルギーは別の事へまわせばいい。
豆腐も同じこと。
自分で豆腐を作ることもちょっとは考えたが、クライストチャーチで美味しい豆腐を作っている豆腐屋さんがいるので、そこのを売って貰う。
残念なことはこの豆腐屋さん、この前の地震で被害に遭い今は豆腐を作っていないそうだ。
トマトケチャップを作ったこともあったが、これはトマトがタダ同然というぐらいでないと割が合わない。今ではお店で市販品を買っている。
自給自足とは楽ではなく、非常にエネルギーが要ることなのだ。
だが目指す物は自給自足だが、ちょっと肩の力を抜いて、自足を半分。
自給半足というのはどうだろう?
この言葉はとある自給自足の場で見つけた物だが、脱原発と同じぐらいボクの心に響いた。
先週は新たにニワトリのひなを2羽買った。
去年からいるニワトリはヒネとミカンと言う名だが、ペケとプクという新しい家族が我が家に加わった。
ニワトリを2羽飼うのも4羽飼うのもたいして変わらない。
取らぬ狸の皮算用、ではないが数ヶ月後、上手くいけば1日4つの卵が手に入る。
新鮮で安全な卵が食べられる。体にも良いに決まっている。
ある知人は、そういう卵を売って欲しいと言った。
自分の家で食べきれない分は買って貰ってもいいな。ニワトリを飼うのだってエサ代などお金はかかるのだから。
ボクは納豆も自分で作っているが、それを譲ってくれという人もいる。
電話で注文が来て、納豆1kgとかそういう単位で買ってくれるのだ。
ありがたいことである。
お金はありがたく頂くものであり、荒く稼ぐ物ではない。
頂いたお金は、感謝の気持ちと共に別の人へ廻る。
そうやってエネルギーは人から人へ廻るものだ。
クィーンズタウンを去る前に、ある日本人の集まりでボクは納豆を売った。
クィーンズタウンでは納豆を作っている人はいない。冷凍納豆はお店で買えるが、出来たての納豆は手に入らない。
納豆は貴重で、その時もボクの納豆は飛ぶように売れた。
その時にある人はこう言った。
「高いなあ。でも買ってやるよ」
ボクは正直カチンときた。まだまだ人間が出来ていない。
「高いと思うのなら買っていただかなくても結構です。ボクが作る量には限りはあるし、この値段でも欲しいと言ってくれる人はたくさんいます」
物を買う方も売る方も、どういう気持ちを持つかで言葉も変わってくる。
『買ってやる』という言葉の裏には、あきらかに自分が上という上下関係がある。
逆に『売ってやる』と言えば、これは殿様商売でやはり自分が上だ。こんな商売は上手く行くわけがない。
日本では物を売る商売人は低いもの、という感覚がある。これは士農工商という身分制度から来ているのだろうか。
物の売り買いはエネルギーの交流の場だ。そこに身分の上下はない。
「買ってやる」のではなく「売ってもらう」
「売ってやる」のではなく「買ってもらう」
「売ってもらう」「買ってもらう」の後に続く言葉は「ありがとう」だ。
人々がこういう意識を持てば、世の中も丸くなるのになあ。
話がそれてしまった。
自分で作れるモノは作れば良い。
それを欲しいという人には、代償としてお金をいただけばよい。
餅は餅屋、ではないが全てを自分でやらずに人に頼るのもよい。
だが出来るだけ自分で、生きていく上で必要な物を作っていく。
理想は高く、それでいてプレッシャーにならないぐらい。
自給半足でもいいし、自給4分の1足でもいいし、100分の1足でも10000分の1でもいい。
大切なことは、自分ができることをする。
その意志を持つかどうかで人生は変わる。
どうでしょうか、こんな自給半足の勧め?
自分で充分に保つとか、持続可能な、というような意味合いである。
ボクも自給自足を夢見ているが、完全な自給自足というのは普通の生活をしている上では不可能だ。
それでも自分で食べる物を、使う物をできるだけ自分で作っていこうとは思っているが限界もある。
味噌を作ったのは数年前だったか。
糀を育てて味噌を仕込んで作った味噌は、そりゃ旨かったさ。
だけど手間もかかった。味噌作りより糀を作るのが面倒くさい。
作るならある程度まとまった量を作る方が良い。
そんなことを考えていたら友達のゴーティーがネルソンで味噌造りを始め販売するようになった。
ゴーティーは以前トレッキングガイドをやっていた人で本職の板前さんだ。
家で野菜も作っていて、ニワトリも飼っているし、石けんも作る。まあボクと似たようなことをやってるわけだ。
この人の作る物はなんでも旨い。
味噌はネルソン産の大豆とブレナム産の塩を使っている。もちろん旨い。
値段は市販の味噌の倍近い値段だが、それに値する価値はある。
安くはないが高くもないと思う。高いと思う人は買わなければよい。それだけだ。
なんと言っても出所の分かっている材料と作っている人の顔が分かるというのは、食品を買う上でとても大切なことだ。
中国で取れた豆を日本まで運び、製品にしてそれをニュージーランドまで持ってくる。これってグローバル?
それよりもニュージーランドで取れた豆と塩でニュージーランドで作られる味噌。それを食べればいいじゃん。
地産地消という言葉があるが、とても好きな言葉だ。
ボクは最近、物を買うときは多少高くてもできるだけニュージーランド産の物を買うようにしている。
テレビのコマーシャルでも「ニュージーランド産のモノを買いましょう」と言っている。自分の会社の商品名を連呼するだけが広告ではない。広告とはこうあるべきだ。
そして北島産より南島産。同じ物なら遠い所より近くで取れた物を。
エネルギーの無駄使いはできるだけ省く。
ボクはこの味噌を食べて思った。
ああ、もう味噌作りはやめよう。友達がこんなに旨い味噌を作るならそれを売って貰えばいいや。
その分の自分のエネルギーは別の事へまわせばいい。
豆腐も同じこと。
自分で豆腐を作ることもちょっとは考えたが、クライストチャーチで美味しい豆腐を作っている豆腐屋さんがいるので、そこのを売って貰う。
残念なことはこの豆腐屋さん、この前の地震で被害に遭い今は豆腐を作っていないそうだ。
トマトケチャップを作ったこともあったが、これはトマトがタダ同然というぐらいでないと割が合わない。今ではお店で市販品を買っている。
自給自足とは楽ではなく、非常にエネルギーが要ることなのだ。
だが目指す物は自給自足だが、ちょっと肩の力を抜いて、自足を半分。
自給半足というのはどうだろう?
この言葉はとある自給自足の場で見つけた物だが、脱原発と同じぐらいボクの心に響いた。
先週は新たにニワトリのひなを2羽買った。
去年からいるニワトリはヒネとミカンと言う名だが、ペケとプクという新しい家族が我が家に加わった。
ニワトリを2羽飼うのも4羽飼うのもたいして変わらない。
取らぬ狸の皮算用、ではないが数ヶ月後、上手くいけば1日4つの卵が手に入る。
新鮮で安全な卵が食べられる。体にも良いに決まっている。
ある知人は、そういう卵を売って欲しいと言った。
自分の家で食べきれない分は買って貰ってもいいな。ニワトリを飼うのだってエサ代などお金はかかるのだから。
ボクは納豆も自分で作っているが、それを譲ってくれという人もいる。
電話で注文が来て、納豆1kgとかそういう単位で買ってくれるのだ。
ありがたいことである。
お金はありがたく頂くものであり、荒く稼ぐ物ではない。
頂いたお金は、感謝の気持ちと共に別の人へ廻る。
そうやってエネルギーは人から人へ廻るものだ。
クィーンズタウンを去る前に、ある日本人の集まりでボクは納豆を売った。
クィーンズタウンでは納豆を作っている人はいない。冷凍納豆はお店で買えるが、出来たての納豆は手に入らない。
納豆は貴重で、その時もボクの納豆は飛ぶように売れた。
その時にある人はこう言った。
「高いなあ。でも買ってやるよ」
ボクは正直カチンときた。まだまだ人間が出来ていない。
「高いと思うのなら買っていただかなくても結構です。ボクが作る量には限りはあるし、この値段でも欲しいと言ってくれる人はたくさんいます」
物を買う方も売る方も、どういう気持ちを持つかで言葉も変わってくる。
『買ってやる』という言葉の裏には、あきらかに自分が上という上下関係がある。
逆に『売ってやる』と言えば、これは殿様商売でやはり自分が上だ。こんな商売は上手く行くわけがない。
日本では物を売る商売人は低いもの、という感覚がある。これは士農工商という身分制度から来ているのだろうか。
物の売り買いはエネルギーの交流の場だ。そこに身分の上下はない。
「買ってやる」のではなく「売ってもらう」
「売ってやる」のではなく「買ってもらう」
「売ってもらう」「買ってもらう」の後に続く言葉は「ありがとう」だ。
人々がこういう意識を持てば、世の中も丸くなるのになあ。
話がそれてしまった。
自分で作れるモノは作れば良い。
それを欲しいという人には、代償としてお金をいただけばよい。
餅は餅屋、ではないが全てを自分でやらずに人に頼るのもよい。
だが出来るだけ自分で、生きていく上で必要な物を作っていく。
理想は高く、それでいてプレッシャーにならないぐらい。
自給半足でもいいし、自給4分の1足でもいいし、100分の1足でも10000分の1でもいい。
大切なことは、自分ができることをする。
その意志を持つかどうかで人生は変わる。
どうでしょうか、こんな自給半足の勧め?