栗拾い
2011-04-18 | 日記
ある知人のブログに栗拾いの記事が出ていた。
そうか、もうそんな時期かあ。
秋が深まってきた。
日本語って何て美しいんだろう。
秋が深まっちゃうんだよ。
普段何気なく使っている言葉の中に美しさがある。
家の近所に行き止まりの道があり、そこに何本か栗の木がある。
去年もそこで栗拾いをした。
小雨の土曜日、家族で買い物をした帰りに女房が提案した。
「ねえ、栗を拾いに行こうよ」
ボクは正直、乗り気ではなかった。小雨は降っているし、帰ってゴロゴロするほうが楽だ。
「ええ~?入れ物とかある?」
「さっき店で貰った袋があるし、行こうよ」
「じゃあ、行ってみるか」
車を止めて栗の木の下へ行くと、あるわあるわ。大きな栗の実がゴロゴロ転がっている。
僕らは夢中で栗を拾い始めた。
深雪は栗拾いよりも、さっき図書館で借りてきた本に夢中で、車の中で本をむさぼり読んでいる。
まあいいだろう、こういったことはやりたい人がやればいい。
去年は靴でイガを践んで実を出したがあまり大きなものは無かった。今日は践まなくても自然に落ちて、もう目の前にゴロゴロあるのだ。
梨もぎ、梨はもぐもの。
リンゴ狩、キノコ狩、ブドウ狩、キノコやリンゴやブドウは狩るもの。
そして栗拾い。栗は拾うものなのだ。
日本語は美しい。
食べ物を採る、という作業は実に楽しいものだ。
ボクは思わず声に出して言った。
「うわあ、楽しいなあ」
「さっきはあんまり行く気はなかったでしょう?」
妻はするどい。
「ハイ、その通りです」
「何かねえ、ピンときたのよ。栗がたくさん落ちてるんじゃないかなあってね」
「おみそれしました」
今回は女房の直感が大当たりだ。
僕らが拾っている間にも、栗はボトボトと落ちてくる。
自然に落ちたイガから大きな粒がコロリと転がり出す。
いかにも美味そうだ。
こうやって風もないのに自然に落ちるということは、その実が熟して落ちたくなったのだ。
それが食べ物の一番美味しい時期、すなわち旬なのである。
女房と2人で20分ほど拾っただろうか。スーパーの袋一杯の栗が採れた。
栗ご飯なんかいいかな。
甘露煮にしたらこれも保存食になる。煮たときに崩れてしまったものは、裏ごしして生クリームと砂糖と混ぜ、洋菓子の材料になる。
先人の知恵は遠慮無く使わせて貰おう。
次の日の知人と会う時に、庭の野菜と一緒に栗を持っていったら、たいそう喜んでくれた。
なんでも近所の公園に栗拾いに行った時には、競争が激しくてそこにいた中国人に嫌がらせをされたそうな。
これはイカン。
大地からの恵みはみんなでシェア、分け与えるべきだ。
それも自分の木ならまだ分かるが、公園の木である。
公園はみんなのもの、そこにある木も木についた実もみんなのものだ。
中国系の八百屋で栗を売っているのを見たことがあるが、これらはこういう場所から来たのだろうか。
公共の場所で取れた大地の恵みは売ってはいけない。
先ず自分が食べる分を取り、それ以外は人にゆずるべきだ。
自分が食べる分なんてのはたかが知れている。
それ以上に貪欲にもっと欲しい。もっともっと。もっとたくさん採れば、それを売ってたくさんお金が入る・・・・・・。たくさん取るには競争相手は蹴散らさなくていけない。人が取ったら自分の取り分が少なくなってしまう。
自分さえ良ければいい、というエゴだ。こういう意識の流れが見えてしまう。
競争社会というのも根本的にはこれだ。
日本にはお裾分けというこれまた美しい言葉がある。
頂いた物の一部を人に回すというものだ。分かち合う心である。
自分さえよければいいのではない。他人にも感謝の気持ちと共にエネルギーを回していく。
競争社会と対極の位置にあるのが日本の心だと思う。
何回も書いているがこれからの社会は競争ではない。
共存共栄の社会である。
それを引っ張っていくのは日本をはじめとする、自然宗教を持つ少数民族の民であろう。
共通することは自然を敬い恐れ尊ぶこと。
僕達はこの地球に住まわせて貰っている存在だ。
そこにある物を、ありがたく頂く身である。
栗拾いを終えた後、ボクと女房は手を合わせ栗の木に感謝の言葉を唱えた。
こういうことを夫婦でやるのもいいな。
さてこの栗をどうやって食べようかな。
そうか、もうそんな時期かあ。
秋が深まってきた。
日本語って何て美しいんだろう。
秋が深まっちゃうんだよ。
普段何気なく使っている言葉の中に美しさがある。
家の近所に行き止まりの道があり、そこに何本か栗の木がある。
去年もそこで栗拾いをした。
小雨の土曜日、家族で買い物をした帰りに女房が提案した。
「ねえ、栗を拾いに行こうよ」
ボクは正直、乗り気ではなかった。小雨は降っているし、帰ってゴロゴロするほうが楽だ。
「ええ~?入れ物とかある?」
「さっき店で貰った袋があるし、行こうよ」
「じゃあ、行ってみるか」
車を止めて栗の木の下へ行くと、あるわあるわ。大きな栗の実がゴロゴロ転がっている。
僕らは夢中で栗を拾い始めた。
深雪は栗拾いよりも、さっき図書館で借りてきた本に夢中で、車の中で本をむさぼり読んでいる。
まあいいだろう、こういったことはやりたい人がやればいい。
去年は靴でイガを践んで実を出したがあまり大きなものは無かった。今日は践まなくても自然に落ちて、もう目の前にゴロゴロあるのだ。
梨もぎ、梨はもぐもの。
リンゴ狩、キノコ狩、ブドウ狩、キノコやリンゴやブドウは狩るもの。
そして栗拾い。栗は拾うものなのだ。
日本語は美しい。
食べ物を採る、という作業は実に楽しいものだ。
ボクは思わず声に出して言った。
「うわあ、楽しいなあ」
「さっきはあんまり行く気はなかったでしょう?」
妻はするどい。
「ハイ、その通りです」
「何かねえ、ピンときたのよ。栗がたくさん落ちてるんじゃないかなあってね」
「おみそれしました」
今回は女房の直感が大当たりだ。
僕らが拾っている間にも、栗はボトボトと落ちてくる。
自然に落ちたイガから大きな粒がコロリと転がり出す。
いかにも美味そうだ。
こうやって風もないのに自然に落ちるということは、その実が熟して落ちたくなったのだ。
それが食べ物の一番美味しい時期、すなわち旬なのである。
女房と2人で20分ほど拾っただろうか。スーパーの袋一杯の栗が採れた。
栗ご飯なんかいいかな。
甘露煮にしたらこれも保存食になる。煮たときに崩れてしまったものは、裏ごしして生クリームと砂糖と混ぜ、洋菓子の材料になる。
先人の知恵は遠慮無く使わせて貰おう。
次の日の知人と会う時に、庭の野菜と一緒に栗を持っていったら、たいそう喜んでくれた。
なんでも近所の公園に栗拾いに行った時には、競争が激しくてそこにいた中国人に嫌がらせをされたそうな。
これはイカン。
大地からの恵みはみんなでシェア、分け与えるべきだ。
それも自分の木ならまだ分かるが、公園の木である。
公園はみんなのもの、そこにある木も木についた実もみんなのものだ。
中国系の八百屋で栗を売っているのを見たことがあるが、これらはこういう場所から来たのだろうか。
公共の場所で取れた大地の恵みは売ってはいけない。
先ず自分が食べる分を取り、それ以外は人にゆずるべきだ。
自分が食べる分なんてのはたかが知れている。
それ以上に貪欲にもっと欲しい。もっともっと。もっとたくさん採れば、それを売ってたくさんお金が入る・・・・・・。たくさん取るには競争相手は蹴散らさなくていけない。人が取ったら自分の取り分が少なくなってしまう。
自分さえ良ければいい、というエゴだ。こういう意識の流れが見えてしまう。
競争社会というのも根本的にはこれだ。
日本にはお裾分けというこれまた美しい言葉がある。
頂いた物の一部を人に回すというものだ。分かち合う心である。
自分さえよければいいのではない。他人にも感謝の気持ちと共にエネルギーを回していく。
競争社会と対極の位置にあるのが日本の心だと思う。
何回も書いているがこれからの社会は競争ではない。
共存共栄の社会である。
それを引っ張っていくのは日本をはじめとする、自然宗教を持つ少数民族の民であろう。
共通することは自然を敬い恐れ尊ぶこと。
僕達はこの地球に住まわせて貰っている存在だ。
そこにある物を、ありがたく頂く身である。
栗拾いを終えた後、ボクと女房は手を合わせ栗の木に感謝の言葉を唱えた。
こういうことを夫婦でやるのもいいな。
さてこの栗をどうやって食べようかな。