2年前、地震が起こるまで僕はハイキングのガイド、そしてドライバーガイドをしていた。
ハイキングの仕事はかなり頻繁にあり、元々太い方だがそれなりの体型だった。
地震があり、仕事が変わり、ドライバーガイドになってみるみる太った。
運動をしなくなり同じように飲み食いしていたら太るのは当たり前、自然の道理である。
ハイキングガイドの頃から最大で7キロ太った。
体が重たくなったと感じつつも、夏山をガシガシ歩き冬はガンガン滑っていたので、運動不足で病的に太っていたわけではない。
だが心の奥で「なんとかしなきゃあな」と思いつつ日々の生活を繰り返し、痩せるイメージは全く湧かなかった。
今年の夏が終わり、友達のマサさんから断食の話を聞いた。
彼は週2回ぐらい断食をして体調が良くなったと言う。
彼はシェフなのだが断食をすることによって味覚も新鮮なものになったと。
体重も減り、不思議と断食をする日は腹が減らないのだと。
又、『断捨離』という言葉もその時に聞いた。
要らないものを断つ、要らない物を捨てる、そして執着から離れる。
これが断捨離なのだと。
そういった話を、その日は断食の日だったので水を飲みながら話してくれた。
「調子良くなるから聖さんもやってみなよ」
という事を彼は言わない。
誰彼構わず勧められない、と言っていたが僕もその通りだと思う。
「これをやったほうがいいよ」と自分が信じることを人に勧める人がよくいるが、これはインチキ宗教にに騙される信者とたいして変わらない。
なのでぼくもEMのこととか石鹸の有効性とかをあまり強く人に勧めない。
自分がやる。そして興味のある人にだけその事を話すし、欲しい人にはあげる。
やるかどうかは全て本人が決める事だから。
他人の言葉というのはきっかけであり、きっかけだけにとどまるべきだ。
そこに依存してしまうと失敗した時に「あの人が言ったから」と人のせいにすることになる。
数日後、ふと思いついて断食をやってみた。
話を聞いてから自分でも調べてみた。
体の中にはいろいろなバクテリアがある
食べ物を取らなくても老廃物が出るのだが、ある境地に行くとバクテリアがその老廃物を食べて栄養にするんだと。
仙人が霞を食うというのはあながち嘘でもないみたいだ。
マサさんが「断食の日は腹が減らない」というのもそういう事なのかもしれない。
「そうかマサさんも仙人になっちまったのか」などと女房と話していたのだ。
そして思いついた第一回目の断食。
結果はさんざんたるものだった。
もう腹が減って腹が減って、そうしているうちに寒くなるし、元気がなくなって病気になるんじゃないかと思った。
普通の生活をしながらということなので、女房とショッピングモールを歩いていたが、どこの食べ物屋も旨そうに見え、なんとこの世には食べ物があふれていたんだろうと気づく始末である。
体から覇気がなくなり、もうガマンできんと、よく行く中華料理屋で小籠包を頼んだ。
断食開けの食事とかもあるようなのだが、そんなこと知るか。
今はもう腹が減ってしょうがない。
待つ事数分。腹が減りすぎてぐったりして会話も弾まないところに小籠包が来た。
それが旨いこと、旨いこと。
普段からそこは旨いと思っていたが、この日は格別。
味は醤油と酢でさっぱりと。
熱々なので口の中でほろほろとしながら、程よくさめたところで咀嚼する喜び。
肉と野菜の旨みが口の中に広がり、中のスープがこれに絡みまた旨い。
そこは皮も自家製の店で、この皮も程よく蒸しあがり、酢醤油と具の旨みとのコンビネーション。
あー、生きていて良かったあ。
と食べる事の喜びを再発見できた断食体験初日であった。
後日マサさんに電話で話すと、断食をして寒くなるのはよくあることだと、そして具合が悪そうになったらやめたほうがいい、そして時期も関係あるのではないかと。
そうだよな。
第一考えてみれば、体に入るのは水でこれは温度15度ぐらいの温度か。
それが出て行くときには36度ぐらいの温度に暖められて出て行く。
その分の熱が体から奪われるわけだから寒くなって当たり前。
まして時期は初冬、水も冷たいし気温も下がる。
仙人ならば体内のバクテリアがエネルギーをつくってくれるだろうが僕は仙人ではない。
なので断食というものからひとまず距離を置くことにした。
その後、僕がやったことと言えば、意識の変化と自分の体への徹底的な向き合いである。
まあ簡単に言うと『腹が減れば食うし腹が減らなかったら食わない』それだけのことだ。
言葉で言うとそれだけだが、それを徹底的にやる。
先ずは意識の改革。
それまでの自分は朝昼晩と大体決まった時間に飯を食うものだという固定観念があった。
それを外した。
朝、食べたくなかったら食べなくてもいいじゃん。
そしてお腹がすいて食べたくなった時に食べればいいと。
昼飯を12時に取らなくてもいいじゃん。
一人分を作るのが面倒だったり、庭仕事が乗ってきたならお茶だけ飲んでいてもいいじゃないか。
仕事をしているとそういうわけには行かないだろうが、夏と冬の間で家仕事をしていた時だ。
時間は自由に使えたのでそれができた。
決して空腹をガマンするのではない。
断食に失敗した時のように、腹が減って元気がなくなったり、もしくはイライラするのならばそれは方向が違うのだろう。
あくまで普通の生活をしながら、庭仕事をしたり、自転車で犬と一緒に走ったり、家事をしながら、明るく楽しくやりながら、である。
そして食べる時も体に聞く。
もともと間食はあまりしないほうだが、ちょっとお菓子をつまむ時でも自分自身に尋ねる。
お前は本当に今これを食べたいのか?自分に問いただす。
自信を持ってイエスと言う時は美味しくいただく。
どっちでもいい、ただなんとなく、ちょっと口が寂しいから、というのならば食べない。
お酒も同じ事。
本当に飲みたい時にだけ飲む。
どっちでもいいや、という時は飲まない。
とことんシンプルだ。
晩御飯は家族で揃って食べるが、昼を抜くことや、時には朝も昼も抜いてお茶だけガブガブ飲むこともあった。
そうやってると、胃袋が小さくなるのか、少しの量でお腹が一杯になるように体が変化した。
大体今までの三分の二か半分ぐらいの量である。
食べたい物を無理にガマンするのでなく、美味しく食べながらやせる。
まあ言葉で書くと理想的だな。
体重計も今までのものは調子が悪かったので新しくデジタルの物を買った。
正確に体重を計り始めると、見る見るうちに減っていく。
同時にイメージが湧いた。
3年前、山歩きのガイドをしていたぐらいの体重が頭に浮かんだ。
こうなったら、もうできたようなものだ。
お腹がすいたら美味しく食べ、汗をかいて仕事をした時にはビールを飲み、ワインの集まりの時にはワインをいただき、毎日の散歩をして、というような生活で7キロ痩せた。
これは自分がそうなる時だったのだと思う。
だからそうなった。
ただそれだけのこと。
痩せるために何かをするのではなく、無駄を省き健康でいようとする結果、体重が落ちるのだ。
こうやって何キロ痩せた、などというと「いいなあ」と言う人がいるが、そう思った時点ですでに方向がずれている。
人は人、自分は自分なのだ。
徹底的に自分と向き合うという所から外れてしまう。
僕は女房につきあって何回かズンバへ行ったのだが、そこではズンバをやって30キロ痩せたという人がいた。
その人はいまでもスリムとはいい難い体型だが、実に楽しそうにズンバをやっていた。
その人の場合、ズンバをやったから痩せたのではなく、痩せる時だったのだろう。
第一30キロも太っていたのなら、その時の状態に問題がある。
30キロ痩せた話を聞いても「いいなあ」と言うだろうか?
そういうところで人と比べることがそもそもの間違いなのである。
痩せなきゃ、という人は多いが、痩せない理由は二つ。
一つは痩せる時、タイミングではない。
もう一つは痩せる必要がない。
このうちのどちらかだ。
スキーパトロールをやっていて思ったが、細い女の子が簡単に骨を折る。
不健康に細いのにまだ「痩せなきゃ」と言っている。
これはもう脅迫観念を超え、洗脳されているのだがそれに気づかない。
マスコミもそれを煽っているし、それで金儲けをしている人がどれだけいるか。
断食もダイエットが目的でするのと、精神を高め感覚を研ぎ澄ますためにするのでは全く違う。
ついでに書くが断食なんてものは、他人と一緒にするものではない。
自分の体と向かい合って、体調を見ながら自分一人でやるものだ。
その時、タイミングというものは人によって違う。
そのタイミングであれば自然に痩せるし、タイミングでなかったら痩せない。
いずれにせよイメージが湧かなかったらそうはならない。
イメージが湧いたらそうなる。
気をつけないと逆もありえる。
友達は「これ食ったら太るだろうなあ」と思いつつ食べたらてきめんに太るそうだ。
心と体は一体なので、どこに意識を置くかで変わるのだと思う。
心を抜きにして外見だけの太いだ細いだと言っているのが今の風潮である。
だがここでもやっぱり内観、自分の内側を見つめる事抜きにして前進はない。
いいイメージ、やるべきタイミングをつかめば、自然に変わっていく。
痩せなきゃ、という想いは執着なので一度その執着を解き放ち、健康であるという事に意識を向ける。
良く僕は「こうなればいいなあという想いは実現する」と言っているがそれは執着を解き放した時に自然にそうなる。
逆に言えば執着に囚われているうちは何をやってもうまくいかないだろう。
僕の体重は元に戻り、さらに減り、ハイキングガイドをしていた頃よりも2~3キロ減った。
体が軽くなったのがはっきり分かり、山を歩くのもとても楽だ。
スキーでハイクアップをするのも楽だし、山を走るトレイルランニングもできそうだ。
体はすっきりしたので、スポンサーからもらっている服もそれなりにサマになった。
無駄な大食いをしなくなったので、食費も減った。
今までの調子で肉とかを買うと消費しきれずに傷んでしまい、その結果犬のごちそうになってしまう。
犬も大喜びだ。
徹底的に無駄を省き、健康な体というもの意識を向けた結果、全てがうまくいった。
断捨離 要らないもの断ち、要らないものを捨て、執着から離れる。
これも根底に愛があればこそ。
今回は自分の体に「ありがたや、ありがたや」なのである。
ハイキングの仕事はかなり頻繁にあり、元々太い方だがそれなりの体型だった。
地震があり、仕事が変わり、ドライバーガイドになってみるみる太った。
運動をしなくなり同じように飲み食いしていたら太るのは当たり前、自然の道理である。
ハイキングガイドの頃から最大で7キロ太った。
体が重たくなったと感じつつも、夏山をガシガシ歩き冬はガンガン滑っていたので、運動不足で病的に太っていたわけではない。
だが心の奥で「なんとかしなきゃあな」と思いつつ日々の生活を繰り返し、痩せるイメージは全く湧かなかった。
今年の夏が終わり、友達のマサさんから断食の話を聞いた。
彼は週2回ぐらい断食をして体調が良くなったと言う。
彼はシェフなのだが断食をすることによって味覚も新鮮なものになったと。
体重も減り、不思議と断食をする日は腹が減らないのだと。
又、『断捨離』という言葉もその時に聞いた。
要らないものを断つ、要らない物を捨てる、そして執着から離れる。
これが断捨離なのだと。
そういった話を、その日は断食の日だったので水を飲みながら話してくれた。
「調子良くなるから聖さんもやってみなよ」
という事を彼は言わない。
誰彼構わず勧められない、と言っていたが僕もその通りだと思う。
「これをやったほうがいいよ」と自分が信じることを人に勧める人がよくいるが、これはインチキ宗教にに騙される信者とたいして変わらない。
なのでぼくもEMのこととか石鹸の有効性とかをあまり強く人に勧めない。
自分がやる。そして興味のある人にだけその事を話すし、欲しい人にはあげる。
やるかどうかは全て本人が決める事だから。
他人の言葉というのはきっかけであり、きっかけだけにとどまるべきだ。
そこに依存してしまうと失敗した時に「あの人が言ったから」と人のせいにすることになる。
数日後、ふと思いついて断食をやってみた。
話を聞いてから自分でも調べてみた。
体の中にはいろいろなバクテリアがある
食べ物を取らなくても老廃物が出るのだが、ある境地に行くとバクテリアがその老廃物を食べて栄養にするんだと。
仙人が霞を食うというのはあながち嘘でもないみたいだ。
マサさんが「断食の日は腹が減らない」というのもそういう事なのかもしれない。
「そうかマサさんも仙人になっちまったのか」などと女房と話していたのだ。
そして思いついた第一回目の断食。
結果はさんざんたるものだった。
もう腹が減って腹が減って、そうしているうちに寒くなるし、元気がなくなって病気になるんじゃないかと思った。
普通の生活をしながらということなので、女房とショッピングモールを歩いていたが、どこの食べ物屋も旨そうに見え、なんとこの世には食べ物があふれていたんだろうと気づく始末である。
体から覇気がなくなり、もうガマンできんと、よく行く中華料理屋で小籠包を頼んだ。
断食開けの食事とかもあるようなのだが、そんなこと知るか。
今はもう腹が減ってしょうがない。
待つ事数分。腹が減りすぎてぐったりして会話も弾まないところに小籠包が来た。
それが旨いこと、旨いこと。
普段からそこは旨いと思っていたが、この日は格別。
味は醤油と酢でさっぱりと。
熱々なので口の中でほろほろとしながら、程よくさめたところで咀嚼する喜び。
肉と野菜の旨みが口の中に広がり、中のスープがこれに絡みまた旨い。
そこは皮も自家製の店で、この皮も程よく蒸しあがり、酢醤油と具の旨みとのコンビネーション。
あー、生きていて良かったあ。
と食べる事の喜びを再発見できた断食体験初日であった。
後日マサさんに電話で話すと、断食をして寒くなるのはよくあることだと、そして具合が悪そうになったらやめたほうがいい、そして時期も関係あるのではないかと。
そうだよな。
第一考えてみれば、体に入るのは水でこれは温度15度ぐらいの温度か。
それが出て行くときには36度ぐらいの温度に暖められて出て行く。
その分の熱が体から奪われるわけだから寒くなって当たり前。
まして時期は初冬、水も冷たいし気温も下がる。
仙人ならば体内のバクテリアがエネルギーをつくってくれるだろうが僕は仙人ではない。
なので断食というものからひとまず距離を置くことにした。
その後、僕がやったことと言えば、意識の変化と自分の体への徹底的な向き合いである。
まあ簡単に言うと『腹が減れば食うし腹が減らなかったら食わない』それだけのことだ。
言葉で言うとそれだけだが、それを徹底的にやる。
先ずは意識の改革。
それまでの自分は朝昼晩と大体決まった時間に飯を食うものだという固定観念があった。
それを外した。
朝、食べたくなかったら食べなくてもいいじゃん。
そしてお腹がすいて食べたくなった時に食べればいいと。
昼飯を12時に取らなくてもいいじゃん。
一人分を作るのが面倒だったり、庭仕事が乗ってきたならお茶だけ飲んでいてもいいじゃないか。
仕事をしているとそういうわけには行かないだろうが、夏と冬の間で家仕事をしていた時だ。
時間は自由に使えたのでそれができた。
決して空腹をガマンするのではない。
断食に失敗した時のように、腹が減って元気がなくなったり、もしくはイライラするのならばそれは方向が違うのだろう。
あくまで普通の生活をしながら、庭仕事をしたり、自転車で犬と一緒に走ったり、家事をしながら、明るく楽しくやりながら、である。
そして食べる時も体に聞く。
もともと間食はあまりしないほうだが、ちょっとお菓子をつまむ時でも自分自身に尋ねる。
お前は本当に今これを食べたいのか?自分に問いただす。
自信を持ってイエスと言う時は美味しくいただく。
どっちでもいい、ただなんとなく、ちょっと口が寂しいから、というのならば食べない。
お酒も同じ事。
本当に飲みたい時にだけ飲む。
どっちでもいいや、という時は飲まない。
とことんシンプルだ。
晩御飯は家族で揃って食べるが、昼を抜くことや、時には朝も昼も抜いてお茶だけガブガブ飲むこともあった。
そうやってると、胃袋が小さくなるのか、少しの量でお腹が一杯になるように体が変化した。
大体今までの三分の二か半分ぐらいの量である。
食べたい物を無理にガマンするのでなく、美味しく食べながらやせる。
まあ言葉で書くと理想的だな。
体重計も今までのものは調子が悪かったので新しくデジタルの物を買った。
正確に体重を計り始めると、見る見るうちに減っていく。
同時にイメージが湧いた。
3年前、山歩きのガイドをしていたぐらいの体重が頭に浮かんだ。
こうなったら、もうできたようなものだ。
お腹がすいたら美味しく食べ、汗をかいて仕事をした時にはビールを飲み、ワインの集まりの時にはワインをいただき、毎日の散歩をして、というような生活で7キロ痩せた。
これは自分がそうなる時だったのだと思う。
だからそうなった。
ただそれだけのこと。
痩せるために何かをするのではなく、無駄を省き健康でいようとする結果、体重が落ちるのだ。
こうやって何キロ痩せた、などというと「いいなあ」と言う人がいるが、そう思った時点ですでに方向がずれている。
人は人、自分は自分なのだ。
徹底的に自分と向き合うという所から外れてしまう。
僕は女房につきあって何回かズンバへ行ったのだが、そこではズンバをやって30キロ痩せたという人がいた。
その人はいまでもスリムとはいい難い体型だが、実に楽しそうにズンバをやっていた。
その人の場合、ズンバをやったから痩せたのではなく、痩せる時だったのだろう。
第一30キロも太っていたのなら、その時の状態に問題がある。
30キロ痩せた話を聞いても「いいなあ」と言うだろうか?
そういうところで人と比べることがそもそもの間違いなのである。
痩せなきゃ、という人は多いが、痩せない理由は二つ。
一つは痩せる時、タイミングではない。
もう一つは痩せる必要がない。
このうちのどちらかだ。
スキーパトロールをやっていて思ったが、細い女の子が簡単に骨を折る。
不健康に細いのにまだ「痩せなきゃ」と言っている。
これはもう脅迫観念を超え、洗脳されているのだがそれに気づかない。
マスコミもそれを煽っているし、それで金儲けをしている人がどれだけいるか。
断食もダイエットが目的でするのと、精神を高め感覚を研ぎ澄ますためにするのでは全く違う。
ついでに書くが断食なんてものは、他人と一緒にするものではない。
自分の体と向かい合って、体調を見ながら自分一人でやるものだ。
その時、タイミングというものは人によって違う。
そのタイミングであれば自然に痩せるし、タイミングでなかったら痩せない。
いずれにせよイメージが湧かなかったらそうはならない。
イメージが湧いたらそうなる。
気をつけないと逆もありえる。
友達は「これ食ったら太るだろうなあ」と思いつつ食べたらてきめんに太るそうだ。
心と体は一体なので、どこに意識を置くかで変わるのだと思う。
心を抜きにして外見だけの太いだ細いだと言っているのが今の風潮である。
だがここでもやっぱり内観、自分の内側を見つめる事抜きにして前進はない。
いいイメージ、やるべきタイミングをつかめば、自然に変わっていく。
痩せなきゃ、という想いは執着なので一度その執着を解き放ち、健康であるという事に意識を向ける。
良く僕は「こうなればいいなあという想いは実現する」と言っているがそれは執着を解き放した時に自然にそうなる。
逆に言えば執着に囚われているうちは何をやってもうまくいかないだろう。
僕の体重は元に戻り、さらに減り、ハイキングガイドをしていた頃よりも2~3キロ減った。
体が軽くなったのがはっきり分かり、山を歩くのもとても楽だ。
スキーでハイクアップをするのも楽だし、山を走るトレイルランニングもできそうだ。
体はすっきりしたので、スポンサーからもらっている服もそれなりにサマになった。
無駄な大食いをしなくなったので、食費も減った。
今までの調子で肉とかを買うと消費しきれずに傷んでしまい、その結果犬のごちそうになってしまう。
犬も大喜びだ。
徹底的に無駄を省き、健康な体というもの意識を向けた結果、全てがうまくいった。
断捨離 要らないもの断ち、要らないものを捨て、執着から離れる。
これも根底に愛があればこそ。
今回は自分の体に「ありがたや、ありがたや」なのである。