あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

自分の責任

2012-07-26 | 日記
数日のツアーから帰ってくると庭が荒れていた。
いつものことだがボクが仕事で出ると、犬のココがさびしくなるのか、いろいろといたずらをする。
ラブラドールの1歳というのはまだ子供なのだそうで、とにかくいたずらをする。
「ここ掘れワンワン」の言葉どおり、あちこちを掘り返す。
芝生に穴もあけるし、畑も掘る。せっかく植えた野菜も掘り返してしまう。
「ここは掘るなって言ってるだろ!」と叱っても、その時はクゥーンと申し訳なさそうな顔をするが、又やる。
小さな苗をプランターに入れて育てようものなら、すぐにココの餌食だ。
いたずらは一人というか1匹で家に居る時にする。さびしんだろうな、きっと。
そして大きなことは、たいていボクが家を留守にする時にやる。
以前ツアーの最中に、ニワトリエリアに侵入してニワトリを殺してしまったこともあった。
そして今回もやってくれた。
かなり大きな植木鉢でブナの木を育てていたのだが、それがやられた。
夏の間、ボクは家を留守にすることが多かったのだがブナは無事だったので、これは大丈夫だろうと思っていたが、犬が成長して力をつけたのか、植木鉢はひっくり返され木は根っこをむきだしにされて庭に転がっていた。
この木は去年から育て始め、1mほどの高さになり、「さてどこに植えようか」などと考えていたところだった。
ボクは嘆き悲しんだ。
愛していた植物は動物のペットと同じだ。
そこに命というものがあるだけで、ボクには動物も植物も同じである。
そして怒りが湧き上がった。
「このバカ犬~」
こぶしを握り締めた。
だがそこで犬を叩いても犬は何故叩かれるのか理解できない。
犬にとっては、そんなことは遠い過去の話だ。
だが怒りは収まらない。やり場の無い怒りにボクはこぶしを握り、歯をくいしばった。
怒りは犬も感じたのか、頭を下げ申し訳なさそうにクゥーンと鳴いた。

こういう時は頭を冷やすに限る。時間が必要だ。
しばらく家の仕事をやっているうちに冷静さを取り戻した。
再び庭へ出ると相変わらず木はそこに転がっていた。
心は痛んだが、まだ死んだと決まったわけではない。
だがこのまま放っておいたらこの木は間違いなく死んでしまう。
自分にできることをしよう。
堆肥を作って掘り起こした手ごろな穴があった。
サイズといい場所といい、おあつらえ向きだ。
穴に土を入れ、木を植え、水をあげた。
ココに掘り起こされないよう、その上に厚く落ち葉をしきつめた。
作業の横でウロウロしているココの首根っこをつかまえて目を見て言った。
「いいか、この木は掘るなよ。分かったか」
そして木に向って手を合わせ拝んだ。
自分がやることはやった。
あとは生きるも死ぬも木が決めることだ。
どちらの結果が来ても、ありのままの現実を受け入れよう。
今までは漠然と、今飼っているニワトリが死んだら穴を掘って埋めてその上にこの木を植えよう、と思っていたが、こういうことが起こったのでニワトリはまだしばらく死なないのだろう。
怒り、悲しみといった感情はすでにない。
それよりも新たな思いが浮かんだ。
これも自分の責任である。

目に見える現実だけ見れば、犬がいたずらをした。悪いのは犬だ。
そこで善悪というもので決め付けてしまうことに問題があるのではないか。
現実は現れ実るものである。
全ての結果には要因がある。
要因は見えることもあれば見えないこともある。
だが常にその一部は自分の責任である。
自分の心の現れが現実となって起こる。
例えば今問題となっている原発。
表面だけ見れば悪いのは電力会社であり、メディアであり、政府である。
だがその政府を作った政治家を選んだのは自分達だし、こういうメディアを見てきたのも自分達であり、電力会社に依存する社会にしたのも自分達だ。
ついでに言えば今、世界で起こっている戦争だって自分達に責任はある。
「自分はこの政治家に投票をしていない」
「自分は原発に反対をしてきた」
「自分はメディアを信用せず、テレビを見なかった」
「自分は反戦運動をしてきた」
それはそれで立派だが、だからといってそれで責任が全くなくなるわけではない。
全ては自分を含む全人類の責任なのだから。
自分一人だけ『良い子』でいるわけにはいかないのだ。
極論が好きな人はこう言う。「じゃあ俺が悪いって言うのか?」
そうは言っていない。
誰が悪く誰が善いという問題ではないのだ。
ワンネス、全ては一つという概念の中で、各個人に責任があることに気が付くべきだ。
気をつけなければならないのは、責任があるからと言って罪悪感を持たないこと。
罪悪感は人間が持つ感情で一番エネルギーが低いものだ。
ボクは悪くない、あなたも悪くない、犬も悪くない、政府もメディアも電力会社も悪くない。
善悪という観念ではなく、愛の法則に気が付いているかどうか。
愛の法則に気が付いていない人は悪ではない。
そういった人もいずれは気が付くはずだ。
ただし罪が大きければ大きいほど、気が付くために痛い目に会うだろう。
そして今世では気づかないでそのまま死んでいく人もいる。
バカは死ななきゃ治らない、というヤツだ。
そういう人は来世ではそのカルマを背負って再び同じことをやりなおさなくてはならない。
いや、ここで罪をつくればその分カルマは大きくなる。
可哀そうに。ボクは同情するが、それは自分で選んだ道だから仕方ない。

原発に反対するデモで17万人が集まったと聞く。
多分ボクも日本にいたら参加すると思う。
ただ集まる人の意識が「政府、メディア、東電=悪」では敵を作り続ける今までの意識の構造となんら変わらない。
純粋に自分の、家族の、全人類の生活を守るために、意思表明をする。
『○○が悪い』というのでなく『自分はクリーンなエネルギーを求める』という思いが根底にあるべきだ。
印象に残った写真では、雨の日にデモに参加した女性が、バリケードを張る警察官に傘をさしてあげている絵だった。
欧米のデモでは考えられないことだろう。
これだけの人が集まれば暴動になることもありうる。
いや、心の根底に対立があれば間違いなく暴動となり、多くの人が傷つくだろう。
だが日本のデモはあくまで平和的であり、日本人の精神性の高さを示している。
本当の侍は武器を持っていながら、それを無闇に使わずできるだけ争いを避ける道を探す。
この精神性の高さこそ日本が誇るものである。

政治家、メディア、官僚、原子力村、といった人達は悪ではない。
悪ではないが腐りきっていることは確かだ。
腐った膿は出してしまわなければ、治らない。
ただこういった表面に出ている膿の奥には、それを操っている人達もいる。
そういった人達は表には出てこない。当然ながらマスコミにだって出ない。
なぜならそれはボクも含めた全ての人の心の奥に潜んでいるのだから。
それはエゴという固い殻で護られている。
その殻を崩すのは自分だ。
自分の心の中心に灯る火を明るく燃やしていけば、闇はなくなる。
全ての世界で起こっている出来事を他人事としてとらえず、自分にもその責任の一環はあると自覚すること。
全ての物事を感情に振り回されることなく、肯定的に受け止め、その瞬間ごとに自分ができることをやる。
それがこれからの世界を救う道なのだ。

ボクはブナの木を見ながら漠然とそんな事を考えた。
そして近くにいたココに言った。
「さっきは怒ってごめんな。おかげで大切なことに気が付いたよ。ありがとう。でも大切な野菜を掘り起こすのはやめておくれよ」
犬は、そんな事知らん、という顔でボクを見た。





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2 コメント

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Unknown (にしやん)
2012-07-26 23:07:46
まさに!
会社の目の前なので、いってきましたよ。
全員がそうだとはいいませんが、
わたしには、
ついに、傍観者ではいてもたってもいられなくなった、
再稼働反対を叫ぶのが正しいのかどうかはわからないが、
とにかくその場に行き、ほんとのじぶんと向き合いたい、向き合えそうな気がするからきてみた!
そんな「ふつうのひと」ばかりだったように感じ、
なんというか、うれしくて目頭があつくなりました。シェアさせてくださーい!
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想いはそこにある。 ()
2012-07-27 04:19:06
にしやんさん

再稼動に反対することは悪い事ではないですよね。
それはクリーンなエネルギーを求める声ですから。
ボクの友人でもデモに参加してる人もいます。
今ある現実が自分達が作った物なら、これから来る未来も自分達が作るもの。
クリーンなエネルギーが皆に行きわたる社会を作っていきましょう。
多くの人が傍観者から行動する人になっている。
これはまた、素晴らしいことだと思っています。
ボクはデモには参加できませんが、想いだけでもそこに参加します。
シェアもご自由にどうぞ。
なんたってワンネス。
全ては一つなんですから。

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