ガイドの現場の見出しは、『肩書き「人間」。男HIJIRIニュージーランドを語る。』である。
もちろん自分で書いたわけではない。
こんなもの木っ恥ずかしくて自分で書けるわけがない。
冗談で言ったことを会社の同僚が真に受けて、あれよあれよという間にブログが始まってしまったのだ。
事の起こりはこうだ。
新しい会社に移り、ボクの名刺を作ろうということになった。
社長がボクに聞いた。
「聖さん、肩書きは何がいいですかね?」
「肩書きですか、それならボクの肩書き論を聞いてもらえますか?」
そしてボクは肩書きについての持論を社長と同僚の前で展開した。
今の世の中で肩書きは二種類あると思う。
一つは会社では社長とか会長とか専務とか部長とか、学校だったら校長とか教頭とか、そういうものだ。
それらはあくまでその組織の中での位置づけであって、自分がやっていることではない。
組織があって初めて成り立つもので、組織を外したら何の意味もない。
もう一つは自分がやっていることや職業である。
ゴルファー、歌手、画家、クライマー、医者、ガイド、パイロット、俳優、スキーヤー、ファーマー、僧侶、カメラマン、その他もろもろの全てが肩書きとなる。
ゴルファーの場合はタイガーウッズのようにゴルフをやらないボクが知っている人から、駆け出しの予選に受かるかどうかという人までゴルファーである。
スポーツ選手などの場合は一般の人と区別するためにプロという言葉が付く。
その肩書きをみればその人が何をやっている人か大体分かるというものだ。
その意味ではボクの肩書きはガイドである。
だがそれさえもちっぽけな人間の社会のこと。
そこから一歩踏み出して、自分という存在を現すのが『人間』という肩書きである。
人間は何故この地球に生まれたのか。
自分が人間として生まれてきて何をすべきか。
人間としてどうあるべきか。
そういった答の出ない質問を真剣に考えるのが人間だと思う。
「そういう意味もこめてボクの肩書きは『人間』なのです」
同僚は面白がり、社長は途方にくれた。
「いやまあ・・・それはそうですけど・・・ねえ。まさか名刺に『人間』って入れるわけにもいかないし・・・。」
「あははは、分かってますって。肩書きはガイドにしてください」
結局ガイドだけでは寂しいのでアウトドアガイドということに落ち着いた。
これならスキーガイドにもハイキングガイドにも当てはまる。
ドライバーの仕事でも、車から降りた時に感じるこの国の風を紹介するという意味も含む。
『人間』という肩書きの欠点は、世界で70億も人がいるので全ての人がそれを言い出したら、収集がつかなくなるし、言葉の意味もなくなってしまうことだ。
だが『人間』とは自分自身の内側を見てエゴをコントロールし、他人のために働きそれを愉しみにするもの。
人は不完全なものと知り、過ちを犯したならばそれを認める。
人の幸福は自分の幸福であり、そのためには努力を惜しまない。
人の悲しみは自分の心の痛みであり、それが解消した時には共に喜ぶ。
争い、諍い、戦いは避け、そうならないための道を探す。
それを人間と呼ぶならば全世界の人がそうなった時にこの世は変わる。
偉そうに言うが、自分だってこれが全て出来ているとは思わない。
酒の飲み方だって何回失敗しても、まだ飲みすぎてしまう。
「これが人間の愚かさだ」などと言いつつウコンを飲んだりするものだ。
ただヨガで一つのポーズを作り上げることが目的ではなく、出来なくともそこに向かう姿勢が大切なように、目標を高く持ちそこに向かおうという強い意志を持つこと。
これが人間というものなんだと思う。
全人類が本当の意味での『人間』になる時、そしてその時はすぐ近くまで来ている。
それを知りつつ自分ができることをコツコツとやるのだ。
「たとえ明日、世界の終わりが来ようと、自分はリンゴの木を植えるだろう」
誰の言葉か忘れてしまったが、この言葉に全てが詰まっている。
そしてボクは言うだろう。
「その想いで木を植えたのなら、あなたの言う世界の終わりはやってこない」
だけどみんながみんな肩書き『人間』を使ったら言葉に意味がなくなってしまう。
その時には肩書き『生き物、北村聖』。
もしくは肩書き『宇宙人、北村聖』。
こんなのどうでしょう?
もちろん自分で書いたわけではない。
こんなもの木っ恥ずかしくて自分で書けるわけがない。
冗談で言ったことを会社の同僚が真に受けて、あれよあれよという間にブログが始まってしまったのだ。
事の起こりはこうだ。
新しい会社に移り、ボクの名刺を作ろうということになった。
社長がボクに聞いた。
「聖さん、肩書きは何がいいですかね?」
「肩書きですか、それならボクの肩書き論を聞いてもらえますか?」
そしてボクは肩書きについての持論を社長と同僚の前で展開した。
今の世の中で肩書きは二種類あると思う。
一つは会社では社長とか会長とか専務とか部長とか、学校だったら校長とか教頭とか、そういうものだ。
それらはあくまでその組織の中での位置づけであって、自分がやっていることではない。
組織があって初めて成り立つもので、組織を外したら何の意味もない。
もう一つは自分がやっていることや職業である。
ゴルファー、歌手、画家、クライマー、医者、ガイド、パイロット、俳優、スキーヤー、ファーマー、僧侶、カメラマン、その他もろもろの全てが肩書きとなる。
ゴルファーの場合はタイガーウッズのようにゴルフをやらないボクが知っている人から、駆け出しの予選に受かるかどうかという人までゴルファーである。
スポーツ選手などの場合は一般の人と区別するためにプロという言葉が付く。
その肩書きをみればその人が何をやっている人か大体分かるというものだ。
その意味ではボクの肩書きはガイドである。
だがそれさえもちっぽけな人間の社会のこと。
そこから一歩踏み出して、自分という存在を現すのが『人間』という肩書きである。
人間は何故この地球に生まれたのか。
自分が人間として生まれてきて何をすべきか。
人間としてどうあるべきか。
そういった答の出ない質問を真剣に考えるのが人間だと思う。
「そういう意味もこめてボクの肩書きは『人間』なのです」
同僚は面白がり、社長は途方にくれた。
「いやまあ・・・それはそうですけど・・・ねえ。まさか名刺に『人間』って入れるわけにもいかないし・・・。」
「あははは、分かってますって。肩書きはガイドにしてください」
結局ガイドだけでは寂しいのでアウトドアガイドということに落ち着いた。
これならスキーガイドにもハイキングガイドにも当てはまる。
ドライバーの仕事でも、車から降りた時に感じるこの国の風を紹介するという意味も含む。
『人間』という肩書きの欠点は、世界で70億も人がいるので全ての人がそれを言い出したら、収集がつかなくなるし、言葉の意味もなくなってしまうことだ。
だが『人間』とは自分自身の内側を見てエゴをコントロールし、他人のために働きそれを愉しみにするもの。
人は不完全なものと知り、過ちを犯したならばそれを認める。
人の幸福は自分の幸福であり、そのためには努力を惜しまない。
人の悲しみは自分の心の痛みであり、それが解消した時には共に喜ぶ。
争い、諍い、戦いは避け、そうならないための道を探す。
それを人間と呼ぶならば全世界の人がそうなった時にこの世は変わる。
偉そうに言うが、自分だってこれが全て出来ているとは思わない。
酒の飲み方だって何回失敗しても、まだ飲みすぎてしまう。
「これが人間の愚かさだ」などと言いつつウコンを飲んだりするものだ。
ただヨガで一つのポーズを作り上げることが目的ではなく、出来なくともそこに向かう姿勢が大切なように、目標を高く持ちそこに向かおうという強い意志を持つこと。
これが人間というものなんだと思う。
全人類が本当の意味での『人間』になる時、そしてその時はすぐ近くまで来ている。
それを知りつつ自分ができることをコツコツとやるのだ。
「たとえ明日、世界の終わりが来ようと、自分はリンゴの木を植えるだろう」
誰の言葉か忘れてしまったが、この言葉に全てが詰まっている。
そしてボクは言うだろう。
「その想いで木を植えたのなら、あなたの言う世界の終わりはやってこない」
だけどみんながみんな肩書き『人間』を使ったら言葉に意味がなくなってしまう。
その時には肩書き『生き物、北村聖』。
もしくは肩書き『宇宙人、北村聖』。
こんなのどうでしょう?
地球という存在自体、宇宙にあるので人間はみんな宇宙人なんだよね。
21日からクィーンズタウンです。
生もの、良いです。
魚も生が好きだし、生野菜も好きだし、ビールも生が好き。
音楽は常に生(ライブ)だし、他のモノも生が好き。
そういえば昔、友達に生man(ナママン)と呼ばれたことがありました。
そして目指すところは、生臭坊主。
「生もの 北村聖」、これからもよろしく。
わたしも結構年季入ってますよ^^。
「生き物、北村聖」ですが「生物、北村聖」にして「いきもの」であり、「せいぶつ」であり、そして「なまもの」の北村聖という1粒で2度おいしい肩書きにしてみるのはいかがでしょうか? (笑