日新館は会津若松の北部にあるのですが、ここからひたすら猪苗代に向かって山道を登ると、戸ノ口原古戦場に到着します。
会津戦争の大きな要となる戦いは、猪苗代湖の東側に当る母成峠の戦いでした。これは会津藩も少し出向いて峠を守る形になる戦いになったのですが圧倒的な火力の差によって新政府軍が勝利したのです。
こうして猪苗代湖を周り、西岸から会津に向かう入口が戸ノ口原だったのです。
戸ノ口原よりも猪苗代側に架かる十六橋を破壊することで、新政府軍の進攻を贈らせようとした会津藩だったのですが、橋の破壊に集中していた為に薩摩藩兵を率いていた川村純義の部隊の接近に気が付かず、至近距離で一斉射撃を受けてしまい兵を引きます。
川村隊は重要拠点である十六橋を抑えて、そのまま西進して戸ノ口原に迫ったのでした。
戸ノ口原から滝沢道で山を越えたところにある滝沢本陣に、母成峠での敗戦の報を受けて、すでに藩主の座を退いていた松平容保が鶴ヶ城から出陣して本陣を置いていました。
ここに十六橋の報も入り、容保が率いた藩兵も戸ノ口原に向かいます。その中に日向内記が指揮をしていた白虎隊第二中隊が含まれていたのです。
実戦を知らないまま戦場に出ることになった白虎隊は、戸ノ口原という戦国武将でもなかなか経験しないような激戦地に投げ込まれます。
それはまさしく殺し合いの現場でした、しかも完全な負け戦です。白虎隊士たちはどんどんと倒れ、やがて日向内記ともはぐれてしまうのです。
この後の白虎隊の悲劇の話は次に回しますが、このようにして戸ノ口原の戦いにも会津藩は敗れ、新政府軍の城下進攻を許すことになります。
そんな戦場ですから、この周囲には会津藩士たちの墓が点在しているようです。
さて、ここから一気に滝沢旧道を下って飯盛山に出る予定だったのですが、道に迷いました。
最初は十六橋を目指したのですが、場所がよくわからず断念、早々と飯盛山に行こうと思い下って行くと、なぜか湖が見え始めて、猪苗代湖(反対側)に下ったことが発覚!(往復で約11キロ)
もう一度戻って戸ノ口原から別の道に行ったら、今度は会津市街地と猪苗代湖の間の道を下っていました。6.5キロほど進んだところにある湊小学校の校舎を見て、地図で確認して間違えていることを確認。もう一度6.5キロを戻って(登り坂)、やっと滝沢旧道を発見してカーブの多い山道を駆け下りました。
もう自転車で進む標高も距離もオーバー気味ですが、まだ天気に恵まれていました。
しかし、長い旅路の末に飯盛山に到着した時、非情の雨に見舞われることになるのです。
会津戦争の大きな要となる戦いは、猪苗代湖の東側に当る母成峠の戦いでした。これは会津藩も少し出向いて峠を守る形になる戦いになったのですが圧倒的な火力の差によって新政府軍が勝利したのです。
こうして猪苗代湖を周り、西岸から会津に向かう入口が戸ノ口原だったのです。
戸ノ口原よりも猪苗代側に架かる十六橋を破壊することで、新政府軍の進攻を贈らせようとした会津藩だったのですが、橋の破壊に集中していた為に薩摩藩兵を率いていた川村純義の部隊の接近に気が付かず、至近距離で一斉射撃を受けてしまい兵を引きます。
川村隊は重要拠点である十六橋を抑えて、そのまま西進して戸ノ口原に迫ったのでした。
戸ノ口原から滝沢道で山を越えたところにある滝沢本陣に、母成峠での敗戦の報を受けて、すでに藩主の座を退いていた松平容保が鶴ヶ城から出陣して本陣を置いていました。
ここに十六橋の報も入り、容保が率いた藩兵も戸ノ口原に向かいます。その中に日向内記が指揮をしていた白虎隊第二中隊が含まれていたのです。
実戦を知らないまま戦場に出ることになった白虎隊は、戸ノ口原という戦国武将でもなかなか経験しないような激戦地に投げ込まれます。
それはまさしく殺し合いの現場でした、しかも完全な負け戦です。白虎隊士たちはどんどんと倒れ、やがて日向内記ともはぐれてしまうのです。
この後の白虎隊の悲劇の話は次に回しますが、このようにして戸ノ口原の戦いにも会津藩は敗れ、新政府軍の城下進攻を許すことになります。
そんな戦場ですから、この周囲には会津藩士たちの墓が点在しているようです。
さて、ここから一気に滝沢旧道を下って飯盛山に出る予定だったのですが、道に迷いました。
最初は十六橋を目指したのですが、場所がよくわからず断念、早々と飯盛山に行こうと思い下って行くと、なぜか湖が見え始めて、猪苗代湖(反対側)に下ったことが発覚!(往復で約11キロ)
もう一度戻って戸ノ口原から別の道に行ったら、今度は会津市街地と猪苗代湖の間の道を下っていました。6.5キロほど進んだところにある湊小学校の校舎を見て、地図で確認して間違えていることを確認。もう一度6.5キロを戻って(登り坂)、やっと滝沢旧道を発見してカーブの多い山道を駆け下りました。
もう自転車で進む標高も距離もオーバー気味ですが、まだ天気に恵まれていました。
しかし、長い旅路の末に飯盛山に到着した時、非情の雨に見舞われることになるのです。