9月1日午前8時頃、会津若松駅に到着。
駅の改札口近くにゆるキャラっぽい何かが…?
「お城ボくん」まさに赤い瓦の鶴ヶ城をイメージしたキャラです。そしてこのキャラはこの後会津若松市内で何度も見かけることになります(といってもこの日記には登場しませんが…)。
そして会津若松駅と言えばやはり白虎隊の像ですね。
朝はこの写真の空でわかるように青空が広がっていました。
ここで、レンタルサイクルを借りて、一日自転車で行動することになるのですが、この中途半端に自由が利く機動力が僕に大きな試練をもたらすことになります。
と言いますか、借りて地図を開いた時点から試練に自らはまって行ったのです。
今回行かなければならない場所は、八重の生誕地・鶴ヶ城・飯盛山です。でもそれだけなら時間が余るので行ける場所には行ってみようと地図を開くと、駅から4キロ先辺りに“皆鶴姫の碑”と“藤倉二階堂”という文字がありました、そこから山登りしながらまた5キロほど行けば日新館があるみたいなのです。
とりあえず9キロ(山登り付き)、普通はバスなどの手段を選ぶのでしょうが、「行こう」と即決し、自転車をこぎ始めました。
お約束の道を間違えて引き返したりして3キロオーバーの計7キロほど走って県道69線沿いに藤倉二階堂発見。
なんと、室町時代に作られた様式を今に伝えている貴重な建物なのだそうです。
ここから在所のようなところに入るのですが、その道の奥には藤倉城祉がありました。敷地自体は個人のお宅ですので失礼があってはいけませんが、中世の土塁や堀がしっかり残っています。
家の方に声をかけてもっとじっくり観たい気分にもなりましたが、そこはあまり時間を使うと後で困るのでぐっと我慢して周入り口だけ拝見しました。こういう残り方は代々の人がこの土地を守り慈しんだからです。本当に温かい気持ちになる場所でした。
もっと在所の奥に入ると、暦応の碑という不思議な看板がありました。
暦応5年(1342)10月2日と刻まれた石があるそうです。これも室町時代ですね、二階堂もお城も石も室町時代辺りからずっと残されてきたのでしょうか?
それより古い伝承が皆鶴姫です。
源義経がまだ奥州に降る前、義経は兵学を学ぶ為に鬼一法眼に学ぼうとしましたが、法眼が秘伝の兵法書を見せず、困った義経は法眼の娘を口説いて、寝物語で兵法書を見たいことを娘に語りました。娘は自分を抱いてる途中でも義経が気にしてやまない兵法書を、父の所から盗み出して義経に見せたのです。
義経は喜んでこれを書き写したのでした。そして用が済んだら娘に冷たくなり、そのまま黙って旅立ったのです。皆鶴姫はこの娘のことです。
義経に騙されたと知りながらも奥州に向かった義経を追いかけるのですが、藤倉で病を患い、難波池という場所で池に映し出されたやつれた自分の姿にショックを受けてそのまま池に身を投げたのです
そんな皆鶴姫を哀れに思って墓が作られ、その墓石が集められたのが皆鶴姫の碑でした。
鬼一法眼の娘を義経が弄んだ話は有名ですが、その義経を娘が追いかけてそしてこんな結末を迎えていたなんて、恥ずかしながらここに来るまで知りませんでした。
勉強になりました。
そしてここから山を登る日新館への5キロ近いサイクリングが始まるのです。
駅の改札口近くにゆるキャラっぽい何かが…?
「お城ボくん」まさに赤い瓦の鶴ヶ城をイメージしたキャラです。そしてこのキャラはこの後会津若松市内で何度も見かけることになります(といってもこの日記には登場しませんが…)。
そして会津若松駅と言えばやはり白虎隊の像ですね。
朝はこの写真の空でわかるように青空が広がっていました。
ここで、レンタルサイクルを借りて、一日自転車で行動することになるのですが、この中途半端に自由が利く機動力が僕に大きな試練をもたらすことになります。
と言いますか、借りて地図を開いた時点から試練に自らはまって行ったのです。
今回行かなければならない場所は、八重の生誕地・鶴ヶ城・飯盛山です。でもそれだけなら時間が余るので行ける場所には行ってみようと地図を開くと、駅から4キロ先辺りに“皆鶴姫の碑”と“藤倉二階堂”という文字がありました、そこから山登りしながらまた5キロほど行けば日新館があるみたいなのです。
とりあえず9キロ(山登り付き)、普通はバスなどの手段を選ぶのでしょうが、「行こう」と即決し、自転車をこぎ始めました。
お約束の道を間違えて引き返したりして3キロオーバーの計7キロほど走って県道69線沿いに藤倉二階堂発見。
なんと、室町時代に作られた様式を今に伝えている貴重な建物なのだそうです。
ここから在所のようなところに入るのですが、その道の奥には藤倉城祉がありました。敷地自体は個人のお宅ですので失礼があってはいけませんが、中世の土塁や堀がしっかり残っています。
家の方に声をかけてもっとじっくり観たい気分にもなりましたが、そこはあまり時間を使うと後で困るのでぐっと我慢して周入り口だけ拝見しました。こういう残り方は代々の人がこの土地を守り慈しんだからです。本当に温かい気持ちになる場所でした。
もっと在所の奥に入ると、暦応の碑という不思議な看板がありました。
暦応5年(1342)10月2日と刻まれた石があるそうです。これも室町時代ですね、二階堂もお城も石も室町時代辺りからずっと残されてきたのでしょうか?
それより古い伝承が皆鶴姫です。
源義経がまだ奥州に降る前、義経は兵学を学ぶ為に鬼一法眼に学ぼうとしましたが、法眼が秘伝の兵法書を見せず、困った義経は法眼の娘を口説いて、寝物語で兵法書を見たいことを娘に語りました。娘は自分を抱いてる途中でも義経が気にしてやまない兵法書を、父の所から盗み出して義経に見せたのです。
義経は喜んでこれを書き写したのでした。そして用が済んだら娘に冷たくなり、そのまま黙って旅立ったのです。皆鶴姫はこの娘のことです。
義経に騙されたと知りながらも奥州に向かった義経を追いかけるのですが、藤倉で病を患い、難波池という場所で池に映し出されたやつれた自分の姿にショックを受けてそのまま池に身を投げたのです
そんな皆鶴姫を哀れに思って墓が作られ、その墓石が集められたのが皆鶴姫の碑でした。
鬼一法眼の娘を義経が弄んだ話は有名ですが、その義経を娘が追いかけてそしてこんな結末を迎えていたなんて、恥ずかしながらここに来るまで知りませんでした。
勉強になりました。
そしてここから山を登る日新館への5キロ近いサイクリングが始まるのです。