彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

会津若松と平泉訪問記 その3~會津藩校日新館~

2012年09月10日 | 史跡
さて、いよいよ會津藩校日新館に向かいます。
もう『八重の桜』の準備も進んでいます。


日新館は、鶴ヶ城のすぐ近くにあり、現在は天文方があった場所に天文台が再現されていますが、それ以外の施設を会津若松市内に作るだけの土地がありませんでしたので、郊外に原寸大で再現したそうです。
おかげで、当時の藩校の様子を見ることができるのですが、観光に行くには少し遠いのも事実でした。
景色はきれいなのですが、その分だけ山を登ったということです。

入口には、有名な『什の掟』七ヶ条が紹介されていて、最後に「ならぬことはならぬものです」と書かれています。

7つしかないのに、なぜ什の掟?との疑問がよくあるそうですが、人偏に十という字は、10人ほどが集まったグループ(サークル)という意味があるそうです。就学前の子どもたちのグループの中で教えあったことなので、サークルの決まりみたいな意味で什の掟と呼ばれているそうです。


大きな狛犬に守られ、その狛犬の足には意味ありげなポーズもあり…

會津藩校日新館の入口です。

中は広大な敷地です。講堂も大きいです。

その建物で史料と共に、当時の様子が人形になっています。

○基礎学問


○天文学

そういえば、時代的には日新館ができた方があとですが『天地明察』に登場する渋川春海も会津藩の客人という立場でしたね。藩校独自に天文方を置いているところは少なかったらしいので、もしかしたら…と思うとワクワクしますね。

○武士としての礼儀作法

刀の渡し方の作法だそうです。

○軍学

などです。

そして外では水練

藩校でプールを持っていたのはここだけでしたが、幕末前夜に吉田松陰が訪れて会津藩の教育と、この施設に感心して萩の明倫館で真似をさせようとしました。会津と長州はこの時には友好的な関係を築いていたのです。

○天文台

この上からは日新館が見渡せます。


天文台の麓には砲術方があります。

幕末、山本八重は京都に出張に行った兄である山本覚馬の代わりにここで西洋銃の指導をしていました、その生徒の中には白虎隊士もいたそうです。
八重は銃を構えて、銃尻を胸に置いて発砲したそうです。大柄だった若い女性が豊かな胸に衝撃を吸収しながら銃を撃つ様子は、兵器を扱いながらもどことなくのんびりしたイメージがあります。

しかし、ここで学んだ生徒が出陣し、その若い命を多く散らしたのです。

と言う訳で、この次はまた山登りを9キロほど続けて、白虎隊が戦った戸ノ口原古戦場に向かいます。
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