鶴ヶ城を出て、止み始めた雨に感謝しながら、会津若松での最大の目的地である新島八重の生誕地を目指しました。
会津で何度か耳にした言葉なのですが、「来年の大河ドラマの主人公は新島八重だけど、それは結婚した後の名前で、会津では山本八重だった」と、山本氏の人物であることを強調されます。
八重の生まれた山本氏は、お兄さんの山本覚馬が砲術師範を行ったり、砲術に関する責任のほとんどを任されていた面から考えて、会津藩内でも重臣クラスだったことがわかります。
実際に、誕生地に行ってみると鶴ヶ城のすぐ近くでした。
民家の前に石碑と説明板があるのですが、実際はここより30mずれるそうで、そこの辺りまで行ってみると貸駐車場の敷地に看板が設置されていました。
そしてこの看板から道までの空間を『八重の桜』が抑えていました。今後の観光客を見越して、前の視界が無くなる事を防ぐ処置ならば凄いですよね。
ここからのお城の近さを考えると、山本氏の地位も高かった証明になりますし、日新館も近いので八重が通うのも楽だったと思います。
そんな日新館が別の場所で再現されていたことは既に書きましたが、天文台だけは同じ場所に再現されています。
ここから日新館があった方向を眺めると、最早面影が無いことに気が付きます。
そしてお城は近いです。
さて、鶴ヶ城城下には直江兼続の屋敷があった時期がありました。
今でこそ『天地人』の影響で直江兼続は有名人になり、屋敷跡でも立派な観光名所ですが、ここは兼続の屋敷があったことと同時に山鹿素行の生誕地でもあるのです。
赤穂浪士の討ち入りの軍略が、山鹿素行を祖とする山鹿流であたったので、忠臣蔵絡みの名所ではあったのです。
最後に阿弥陀寺に向かいました。
ここには、新撰組三番隊組長の斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
そして鶴ヶ城から移築されたという「御三階」を見ることができるのです。
ここの瓦もやっぱり赤でした。
前回観に来た時には、この赤さが全く気にならなかった事を今更ながらに嘆くと同時に、もっと観察力と疑問力を持たねばらなないことを痛感しました。
ここでタイムリミット
借りていた自転車を返却して、平泉に入る手前の一関まで移動したのです。
後で地図を見れば、自転車で移動するには長い追い距離でした(総計60キロ以上)。
とりあえず、新島八重が育って戦った会津若松市内は、今でも幕末精神は強く残っています。
次回からは、平泉遍です。
会津で何度か耳にした言葉なのですが、「来年の大河ドラマの主人公は新島八重だけど、それは結婚した後の名前で、会津では山本八重だった」と、山本氏の人物であることを強調されます。
八重の生まれた山本氏は、お兄さんの山本覚馬が砲術師範を行ったり、砲術に関する責任のほとんどを任されていた面から考えて、会津藩内でも重臣クラスだったことがわかります。
実際に、誕生地に行ってみると鶴ヶ城のすぐ近くでした。
民家の前に石碑と説明板があるのですが、実際はここより30mずれるそうで、そこの辺りまで行ってみると貸駐車場の敷地に看板が設置されていました。
そしてこの看板から道までの空間を『八重の桜』が抑えていました。今後の観光客を見越して、前の視界が無くなる事を防ぐ処置ならば凄いですよね。
ここからのお城の近さを考えると、山本氏の地位も高かった証明になりますし、日新館も近いので八重が通うのも楽だったと思います。
そんな日新館が別の場所で再現されていたことは既に書きましたが、天文台だけは同じ場所に再現されています。
ここから日新館があった方向を眺めると、最早面影が無いことに気が付きます。
そしてお城は近いです。
さて、鶴ヶ城城下には直江兼続の屋敷があった時期がありました。
今でこそ『天地人』の影響で直江兼続は有名人になり、屋敷跡でも立派な観光名所ですが、ここは兼続の屋敷があったことと同時に山鹿素行の生誕地でもあるのです。
赤穂浪士の討ち入りの軍略が、山鹿素行を祖とする山鹿流であたったので、忠臣蔵絡みの名所ではあったのです。
最後に阿弥陀寺に向かいました。
ここには、新撰組三番隊組長の斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
そして鶴ヶ城から移築されたという「御三階」を見ることができるのです。
ここの瓦もやっぱり赤でした。
前回観に来た時には、この赤さが全く気にならなかった事を今更ながらに嘆くと同時に、もっと観察力と疑問力を持たねばらなないことを痛感しました。
ここでタイムリミット
借りていた自転車を返却して、平泉に入る手前の一関まで移動したのです。
後で地図を見れば、自転車で移動するには長い追い距離でした(総計60キロ以上)。
とりあえず、新島八重が育って戦った会津若松市内は、今でも幕末精神は強く残っています。
次回からは、平泉遍です。