彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『琵琶湖周航の歌』をめぐる3 作詞者・小口太郎

2016年06月04日 | 史跡
吉田千秋より2歳年下の小口太郎は明治30年に長野県の諏訪湖の近くで誕生しました。
諏訪湖を一周した記録を小学生で残すなど、幼い頃から湖に慣れ親しんでいます。
そしてスポーツや音楽など多彩な趣味を持っていたようです。大正6年(1916)第三高等学校入学、理数系である二部乙類に所属し、水上部と弁論部に入部しています。

当時の三高は9月が初年度になり6月は余裕があることから、生徒たち主体のリクエーションが行われていたようで、他年度の記録として四泊五日で琵琶湖周航をした記録も残っています。
大正6年6月27日、大津港近くの三高の艇庫を出発した小口らは雄松(近江舞子)に到着、翌日は今津に宿泊し、ここで小口が書き留めていたメモのような詞に『ひつじ草』の曲が合い『琵琶湖周航の歌』の奇蹟の出会いがあります。
ここからは、小口以外の水上部部員たちも意識しながら歌詞を完成させていったのではないかとも考えられます。今津を出ると竹生島に寄り長浜そして彦根に向ったのではないか?と考えられていて四日目に彦根から長命寺に寄り大津に戻ったと考えられています。

その後、後輩らにも相談しながら歌詞を完成させたようですが、寮歌なのですぐになくなる物と考え、6番の矛盾(長命寺の番号が違う)を残したままの節もあるのです。
翌大正8年第三高等学校卒業、東京帝国大学(現4・東京大学)理学部入学。大正10年、『有線および無線多重電信電話法』の特許を8か国(日・米・英・独・豪・伊・加・仏)で取得。凡人の私にはわかりませんが、小口が長生きしていたら確実にノーベル賞が受章できる研究であり、現在の光ファイバーの元となる研究(らしい)。
翌大正11年東京帝国大学航空研究所に委託入所、12年退職。
大正13年5月16日、東京府の山田病院(現・NTT新宿ビル)にて死去、享年26歳。その最後は研究のストレスと失恋による突発的な自殺とされています。

『琵琶湖周航の歌』に関わった吉田千秋、小口太郎は二人とも20代で亡くなりました。吉田が21歳の時に『ひつじ草』で曲を発表し、小口が21歳の時に詞を記したのです。奇しくも二人とも21歳の時でした。
二人は出会うことはなく、吉田千秋は自分が知らない曲のタイトルで名前を残すことになったのでした。


関連地 高島市今津町 『琵琶湖周航の歌』資料館
コメント
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