彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家ゆかりのふく福めぐり

2016年06月05日 | イベント
2017年の『おんな城主 直虎』を盛り上げるために、今まで以上に井伊家を調べることも増えてきますので、今の内に良い縁を深めようと「井伊家ゆかりのふく福めぐり」という御朱印のイベントでゆかりの場所を巡りながら井伊家の事を感じる時間を作りました。

まずは御朱印帳を購入
これから紹介します御朱印が受けられる場所や、観光協会で購入できます。
ほとんどは、彦根城下町にあるようですが、この地図以外に3か所増えていますので、チラシを一緒に持ち歩くのをお勧めします。

1.寝弘法さんがいらっしゃる、大師寺

2.芸能の神様、千代神社

3.彦根大仏、済福寺

4.赤門や石田三成、淀殿に関わる仏様がある、宗安寺

5.井伊直孝の学問を偲ぶ、北野神社

6.井伊直弼が若き日を過ごした、埋木舎

7.戊辰戦争の犠牲者を慰霊した、護国神社

8.彦根城の鬼門を守る、長寿院

9.井伊谷以来の井伊家菩提寺、龍潭寺

10.神話の時代からの伝承がある、多賀大社

11.井伊直弼の人生を描く屏風がある、慈眼寺

12.井伊家に保護された名勝、青岸寺

13.井伊直孝の母の菩提寺、圓常寺


井伊家に関わること以外でも、それぞれに歴史を持つ場所でした。
これらの縁を感じ、ますます頑張らねばと思いを強くしました。


関連地 彦根市、米原町(清岸寺)、多賀町(多賀大社)
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる3 作詞者・小口太郎

2016年06月04日 | 史跡
吉田千秋より2歳年下の小口太郎は明治30年に長野県の諏訪湖の近くで誕生しました。
諏訪湖を一周した記録を小学生で残すなど、幼い頃から湖に慣れ親しんでいます。
そしてスポーツや音楽など多彩な趣味を持っていたようです。大正6年(1916)第三高等学校入学、理数系である二部乙類に所属し、水上部と弁論部に入部しています。

当時の三高は9月が初年度になり6月は余裕があることから、生徒たち主体のリクエーションが行われていたようで、他年度の記録として四泊五日で琵琶湖周航をした記録も残っています。
大正6年6月27日、大津港近くの三高の艇庫を出発した小口らは雄松(近江舞子)に到着、翌日は今津に宿泊し、ここで小口が書き留めていたメモのような詞に『ひつじ草』の曲が合い『琵琶湖周航の歌』の奇蹟の出会いがあります。
ここからは、小口以外の水上部部員たちも意識しながら歌詞を完成させていったのではないかとも考えられます。今津を出ると竹生島に寄り長浜そして彦根に向ったのではないか?と考えられていて四日目に彦根から長命寺に寄り大津に戻ったと考えられています。

その後、後輩らにも相談しながら歌詞を完成させたようですが、寮歌なのですぐになくなる物と考え、6番の矛盾(長命寺の番号が違う)を残したままの節もあるのです。
翌大正8年第三高等学校卒業、東京帝国大学(現4・東京大学)理学部入学。大正10年、『有線および無線多重電信電話法』の特許を8か国(日・米・英・独・豪・伊・加・仏)で取得。凡人の私にはわかりませんが、小口が長生きしていたら確実にノーベル賞が受章できる研究であり、現在の光ファイバーの元となる研究(らしい)。
翌大正11年東京帝国大学航空研究所に委託入所、12年退職。
大正13年5月16日、東京府の山田病院(現・NTT新宿ビル)にて死去、享年26歳。その最後は研究のストレスと失恋による突発的な自殺とされています。

『琵琶湖周航の歌』に関わった吉田千秋、小口太郎は二人とも20代で亡くなりました。吉田が21歳の時に『ひつじ草』で曲を発表し、小口が21歳の時に詞を記したのです。奇しくも二人とも21歳の時でした。
二人は出会うことはなく、吉田千秋は自分が知らない曲のタイトルで名前を残すことになったのでした。


関連地 高島市今津町 『琵琶湖周航の歌』資料館
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる2 作曲者・吉田千秋

2016年06月03日 | 史跡
吉田千秋は、明治28年(1895)、新潟県に誕生しますとても多彩な文化人だったようで、実家には絵や歌集も残していて、今津町の記録ではアコーディオンを借り受けて展示をしたことがあるということですので、作曲者として音楽の才能も十分持っていたと考えられます。
明治45年私立東京農業大学に入学し級長を任されています。翌年から音楽に関する投稿を雑誌に行うのですが大学入学前から患っていた肺結核が悪化して東京を去り実家の新潟へと戻りました。
大正4年(1915)、英詩『WATER-LILIES』にを日本語の詩にして曲を付けた『ひつじ草』が『音楽界』に掲載されます。その2年後の大正8年に24歳で亡くなりました。未年に生まれ未年に亡くなり、ひつじ草を発表した羊に縁のある人生だったのです。

さて、この吉田千秋という人物は、最近まで謎の人物で加藤登紀子さんが歌い始められた頃は作詞作曲が小口太郎になっていて、吉田千秋の存在は忘れられていました。しかし今津町役場の呼びかけで始まった調査により、父親の研究者が千秋の生立ちを突き止めたのです。千秋が亡くなる前の年に亡くなった父親は吉田東伍、『大日本地名辞書』を著した歴史地理学の権威だったのです。

『ひつじぐさ』歌詞
1.おぼろつきよの 月あかり  かすかに池の おもにおち
 波間にうまぶ かずしらぬ  ひつじぐさをぞ てらすなる

2.雪かとまがう はなびらは  こがねの蘂(しべ)を とりまきつ
 なみのまにまに ゆるげども  はなの心は なみだたず

3.かぜふかばふけ そらくもれ  あめふれなみたて さりながら
 あだなみのした そこふかく  萌えいでたりぬ ひつじぐさ

〇ひつじぐさ


余談ですが、管理人は別の情報紙にも歴史話を書いていて、その中で吉田千秋について紹介しましたので、こちらも参照してください。
 →『琵琶湖周航の歌』の原曲



関連地 高島市今津町 『琵琶湖周航の歌』資料館
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる1 概要と歴史

2016年06月02日 | 史跡
2017年6月に『琵琶湖周航の歌』ができて100年を迎えます。
(トップの写真は『琵琶湖周航の歌』資料館)

ちょうど一年前ということで、何度かに分けて『琵琶湖周航の歌』について紹介したいとおもいます。
できれば、一年後に何かの記念ができることを願っています。

〇概要
『琵琶湖周航の歌』は第三高等学校(現・京都大学)の水上部(ボート部)の寮歌として作詞・小口太郎、作曲・吉田千秋で大正6年(1917)6月27日に今津で誕生したとされています。
その細かい考証は、100年近く前の学生たちの事ですので、確実な記録は少なく、ほとんどの出来事は『琵琶湖周航の歌』に関わった学生たちがほとんどなくなってしまう直前に彼らと交流し研究を行った飯田忠義氏の著書に頼らざるを得ないのが現状です。
歌詞の内容は、小口が所属していた水上部が夏に行っているボートでの琵琶湖周航を歌ったもので、大津を出発し、雄松(近江舞子)、今津、竹生島、彦根、長命寺の寄港地や宿泊地を盛り込んだ内容となっています。


〇歴史
『琵琶湖周航の歌』は小口太郎の詩に吉田千秋が曲を付けるような直接的な作品ではなく、『音楽界』という雑誌の大正4年8月号に掲載された吉田の作った『ひつじ草』という曲が発表されていて、その曲を知っていた小口の仲間が歌うとうまく合ったのでそのまま曲が使われるようになりました。ですので作曲者として名前が記載されている吉田千秋は自分の曲が『琵琶湖周航の歌』に使われているとは知らないまま亡くなっています。
本来、寮歌というものは多く作られ古い物や魅力がない物から消えて行くのですが、『琵琶湖周航の歌』は水上部の寮生たちによって歌い継がれ、森繁久彌さんや加藤登紀子さんによってメジャーな曲へと広がって行ったのです。

〇再現されたフィックス艇





所在地 高島市今津町
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